連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.41 マセラティ250S&300S
イタリア自動車メーカーの多くがそうであるように、マセラティもレーシングカーを作り、その傍らで市販モデルを販売して食いつなぐ商売を行ってきた。3人兄弟が起こした会社、マセラティは、しかしながら良い車は作るけれど、商売は下手…を地で行っていたようで、1937年になると、経営難から会社を実業家のアドルフォ・オルシに譲り渡し、兄弟たちは経営権のないコンサルタントという地位に甘んじる。そして10年後、マセラティ兄弟は、自ら生み出した会社マセラティを去るのである。 【画像】美しきレーシングカー、マセラティ250S&300S(写真7点) 経営権を握ったオルシだが、相変わらずレーシングカーを作る体質に変わりはなかった。明らかに潮目が変わったのは、アルファロメオ、フェラーリと渡り歩いた名エンジニア、ジョアキーノ・コロンボがマセラティにやってきてからである。彼がマセラティで作り上げたのが250Fと呼ばれたF1マシン。その心臓部となる2.5リッター直6のエンジンだった。この車は大成功を収め、ファンジオが1954年のF1チャンピオンを取る原動力となった(得点の半分以上はメルセデスによって獲得しているが) そしてこのエンジンを用いて作られたレーシングスポーツが、1954年に誕生する250Sであった。もっともこの車は目立った成績を残せず、やがてそれは排気量を拡大して300Sに進化していく。 300Sは250F用のエンジンからストロークを伸ばして3リッターとしたもので、マセラティとしてはスマッシュヒットとなる29台を作り上げている。6気筒に精力を注ぐ一方で、空洞化していた1.5リッタークラスにマセラティは150Sを送り込む。直4エンジンはオールアルミ製でツインスパークとDOHCヘッドを持っていた。マセラティは1年ほどワークス活動をすると、マシンをいわゆるジェントルマンドライバーに売却し、それで資金を得ていたのだが、150Sも26台が作られたところから見ると、300S同様、成功したマシンといえよう。そしてこの2リッター版として誕生するのが200S/SIである。75mmのストロークから察するに、250F用の6気筒から2気筒を落とし、92mmのボアを与えたエンジンで、この車は最多となる32台が作られた。ただし、最後の2台、シャシーナンバー2431と2432は、初めからエンジン排気量が2489ccの2.5リッターエンジンが搭載されていた。 1955年に作られた2リッターのプロトタイプは目立った成績を残せなかったものの、1956年には顧客向けのマシン製作がスタートして、その年の7月に開催されたスーペルコルテマッジョーレというモンツァで開催されたレースでは、最新の3リッターフェラーリに次いで2位を獲得している。 ボディは最初の5台に関してチェレスティーノ・フィアンドリで製作され、6台目以降のボディは、メダルド・ファントゥッツィで製作された。ファイナルスペックが確立されると、フレームの制作は150Sを作っていたギルコというメーカーに任せることになった。 1957年になるとレギュレーションが変更され、ロードカーに近づける試みとして、プロトタイプマシンにはワイパー付きの全幅フロントガラス、2つのドア、スペアタイヤが必要となり、さらにオープンカーには布製の屋根が必要になった。このレギュレーションに合致したマシンはスポーツ・インターナショナルの略であるSIと呼ばれた。 一方で、2リッターエンジンをさらに拡大し、戦闘力を高める試みがマセラティ内部で行われた。ボアxストローク92x75mmの2㍑エンジンは、ボアを88mmに、そしてストロークを96mmに拡大したロングストローク型に変更。そのプロトタイプとして、200Sのシャシーナンバー#2409に搭載してテストが行われた。ブエノスアイレス1000kmのプラクティスに登場した250Sは、ファンジォのドライブでこの日のベストタイムを記録し、それはフェラーリの3.5リッターV12のタイムをも上回っていたという。しかしそのシーズンの終わりにマセラティは突然ワークス活動を中止し、それに伴って250Sの開発も終了したため、250Sは僅か4台しか作られなかった。そしてこのうち#2409同様、#2411も2リッターエンジンから2.5リッターエンジンに載せ替えられている。 この2台のエンジン載せ替えモデルとは異なり、初めから2.5リッターが搭載されてデリバリーされたモデルがある。それがシャシーナンバー2431および2432のモデルである。この2台は、キャロル・シェルビースポーツカーInc.によってオーダーされ、1957年12月31日にアメリカに向けてデリバリーされた。この2台のみが正式に250Sとしてマセラティの工場から出荷されたモデルなのである。 今回紹介するロッソビアンコ博物館にあった250Sは、#2431のモデルである。アメリカにデリバリーされたのち、キャロル・シェルビーやジム・ホール(シャパラル創設者)によってドライブされ、1958年3月に、ルイジアナで初優勝を飾っている。この時のドライバーはジム・ホールであった。その後1958年の夏に車両はボビー・アイルワードに売却され、彼自身の手でレースを走る。1962年にはなんとエンジンがコルベット用V8に換装されてしまった。その後アメリカ国内を転々とした後、1978年にロッソビアンコのピーター・カウスが購入し、博物館に展示されるのである。 一方300Sの方はシャシーナンバー3073で、300Sとしては最後期に作られたマシンで、この車もアメリカにデリバリーされ、やはり一時期ジム・ホールの元にあった。現在はロッソビアンコ博物館の大半のモデルを引き継いだ、オランダのローマン博物館が所有しているようだ。 文:中村孝仁 写真:T. Etoh
中村 孝仁 (ナカムラタカヒト)