巨人・阿部は素晴らしい花道。阪神・鳥谷は悔いのないようにな【岡田彰布のそらそうよ】
この季節になると思い出す2人の指揮官のこと……
巨人の阿部には監督時代よく痛い目にあったよ。巨人の大看板を背負い続けた。お疲れ様と言わせてもらう/写真=BBM
セ・パ両リーグとも、優勝チームが決まった。CSも始まり、その後は日本シリーズ。熱い戦いはまだ続く。その一方で9月の終わりから10月は“別れ”の季節。今年限りでユニフォームを脱ぐことを決めたり、他球団への移籍……。人生の岐路が待っている。 オレはどうだったのか。当時のことを思い出す。1980年、阪神にドラフト1位で入団し、自分なりに頑張ってきた。1985年に球団として初となる日本一となり、バース、掛布(掛布雅之)さんとクリーンアップを張ってきた。その後、2人がユニフォームを脱ぎ、残されたオレはチームの柱としての自覚を持ってプレーを続けた。 だが、そこでひとつの転機が訪れる。それは1992年やったか、久しぶりに優勝争いをしたシーズンやった。監督は中村勝広さん。早大の先輩よ。シーズン中、確かナゴヤ球場での中日戦。終盤、チャンスがきた。オレはウエーティングサークルにいた。そして打席が巡ってきた。ところが……打席に向かう背中に、ベンチから声が届いた。「代打!」やった。オレは「エッ?」と思った。聞き間違いやと思った。しかし、中村監督の声はハッキリしていた。球審に告げたのは「岡田に代わって、代打・亀山」やった。 ベンチから亀山(亀山努)が走って出てきた。すれ違ったとき「すいません」と言ってきた。「何を謝ってんねん。お前は関係ないやろ」。試合後、亀山にそう伝えたことを思い出す。これが現実なんや。急速に進んだ新旧交代の波。でも納得できんかった。「何でオレに代打なんや」。ホンマ、腹が立って仕方なかった。そこまでチームを支えてきた自負があった。そんなプライドというのが、ズタズタに切り裂かれた。若かったんやろな。でも当時は、そんな冷静さはなく、腹立たしく思うことしかできんかった。 一方で、オレの阪神での・・・
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週刊ベースボール