「『源氏物語』の作者なら男からモテモテだろう」藤原道長からセクハラを受けた紫式部の"絶妙な切り返し"
藤原道長と紫式部はどんな関係だったのか。『紫式部日記』で綴られている二人のやりとりを見ると、特別な関係だったと考える人が多いという。平安文学研究者・山本淳子さんの著書『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』より、一部を紹介する――。 【この記事の画像を見る】 ■「藤原道長の側室」と伝える系図集 14世紀に成立した系図集、『尊卑分脈』。これで「紫式部」を調べると、藤原為時の子の一として「女子」と大書した周りに、注として次の言葉が記されている。 ---------- 歌人 上東門院女房 紫式部是也(これな) 源氏物語作者……御堂関白道長妾云々(しかじか)。 (歌人。上東門院彰子の女房。紫式部がこの人である。『源氏物語』の作者。……御堂関白藤原道長の側室という。 (『尊卑分脈』第二篇第三 良門孫) ---------- 「妾(しょう)」は、現代の「愛人」ではない。あくまでも公認された妻の一人、しかし正妻ではない関係を言う。 この資料は、紫式部が道長とそうした関係にあったと言うのである。しかしそこには「云々」が付いているから、これは伝聞である。『尊卑分脈』が作られた時、まことしやかにそうした噂をささやく輩がいた。それは現代にまで伝えられて、二人の関係は様々に勘繰られている。 ■瀬戸内寂聴「道長を拒む理由は何一つない」 それにしても、火のないところに煙は立つまい。噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。 以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(つぼね)(部屋)を訪れたことが記されている。だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。 ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。 とはいえ、彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。たぶん、ある。そう筆者は考えている。それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える。 そこで本稿では、道長よりも紫式部を中心に据えて、彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。