“引退決断”からドラフト2位指名へ…中日・吉田聖弥が吹っ切れた「最後の1年」全ては応援してくれた人のために
◇新時代の旗手2025~吉田聖弥(上) 昨年7月末、西濃運輸硬式野球部が使う部室の応接室で、吉田は子どものように泣いていた。「もう限界です…」。日本選手権に向け、堀田晃投手コーチ(30)と設けられた面談の場。消え入りそうな声で現役引退の意志を伝えた。 ◆金丸夢斗ら中日ルーキートリオ、緊張のラジオ生出演【写真複数】 佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)出身。国の重要文化的景観に選定された「蕨野の棚田」に代表されるような目の前に広がる田んぼが日常風景。「子どものときは友だちと川で遊んだりしていました」 元気いっぱいのやんちゃ坊主が野球に興味を抱いたのは小学2年のとき。祖父・江口邦昭さんと訪れたヤフードーム(現みずほペイペイドーム)で一人の投手から目が離せなくなった。「試合を支配する姿が格好よかった」。ソフトバンクのエース・杉内俊哉(現・巨人投手コーチ)だった。サッカーボールを蹴ることに夢中だった少年は翌年、地元の野球チーム「相知レインボー」で白球を追いかけていた。 お調子者で涙もろく、そして引っ込み思案な性格。杉内に憧れて野球を始めたが、投手がやりたいとは言い出せない。小学6年のときは左利きには珍しく捕手。念願かなって中学2年の秋から投手に専念すると、県内外の高校から声が掛かる存在に。だが「強豪校でやる自信がない」と伊万里農林高(現・伊万里実高)に進学。3年夏の県独自大会は初戦の2回戦でコールド負けした。 「野球は続けたかった」と選んだのは西濃運輸。同社でプレーする野崎大地主将の父が伊万里農林高時代の恩師・野崎政人監督だった縁もあり、入社を決意。1年目の2021年は林(現楽天)と船迫(現巨人)が主戦。だが「壁は感じなかった」。その言葉どおり、投げれば結果は出た。だが明るい未来が暗転したのは、2022年1月。ブルペンでの投球練習中に左肩に激痛が走った。関節唇の損傷。その後は治ったと思い投げては故障、の繰り返し。ドラフト解禁となる3年目の都市対抗本戦もスタンドで戦いを見つめていた。 「完全に心が折れていた」。そんなとき、声を掛けたのが堀田コーチだった。吉田が辞めると言い出すことを予感していた同コーチは左腕をこう諭した。「応援してきてくれた人の顔を思い浮かべてみろ。今までは自分のために野球をしてきてダメだったんだろう。ここで辞めるのなら最後の1年と決めて、応援してくれた人の思いを背負って頑張ってみろ」 吉田は「あの言葉でいろんな人の顔を思い出しました」と振り返る。苦しいときでも応援してくれた家族や友人、指導者の顔を思い浮かべる。再び涙腺が崩壊すると、吉田の中で何かが吹っ切れていた。
中日スポーツ