輪島市で被災、車中泊しながら1600人分の食事を届けたシェフが望む「被災地の食と必要なこと」
2024年1月1日。「ラトリエ・ドゥ・ノト」のシェフ池端氏は、店のスタッフたちと気多神社へ初詣に行っていた。16時10分、帰りの穴水町の道路の上で被災。目の前の道路は割れて崩壊していた。とてもじゃないけれど輪島までは戻れないと思い、近くの穴水の消防署へ向かった。
辿り着いたころには日も暮れてあたりは真っ暗。付近から300人くらいの人が自主避難をしてきていた。停電し断水しているため暖をとることもできない。そこで自身の車がプラグインハイブリッドだったことから電源をとり、消防署の備蓄の水を沸かしてカップ麺を作り避難している人に配った。 夜が明けて、店に向かう。通常なら20分で店に戻れるところ、混乱のための渋滞もあり3時間かかって到着した。
市内に着いて目に飛び込んできたのは、かつての輪島の街並みが消えてしまった嘘のような光景だった。火災と家屋倒壊両方が起きた輪島は、今回の震災で珠洲と並び、もっとも被害が大きかった場所でもある。 店に辿り着くと、正面はかろうじて原形をとどめているものの、中は潰れていた。「これは、無理だな」と思い、安否確認の取れた家族をすぐに大阪の親戚へ避難させた。自身は残り、店の中にある使えそうなものを全部出した。 炊き出しを始めたのは2日の夜から。「ちょうど2日から営業だったので、冷蔵庫の中には食材がたっぷり入っていました。これを料理して被災した人に食べてもらおうと思いました」と池端氏。一緒に残った店のスタッフ、そして近隣の飲食店の3人とともに一緒に小規模に炊き出しをした。この炊き出しが非常に喜ばれた。 「翌日の1月3日、避難所になっている輪島小学校に多くの人が集まっているという情報を得て、温かい汁物を800人分作って持って行きました。まだまだ食材が余っていたので、喜んでもらえたらと思ったんです。でも、その時に料理を食べたお父さんが、『被災してから冷たいおにぎり一つしか食べてなかった。本当にありがとう』と涙を流された姿を見て、これは、これから先も避難した人たちの食事をなんとかしなければ、と思いました」と池端さんは振り返る。善意が使命に変わった瞬間だった。 あまりの被害の甚大さに、役所も国も被害の状況が把握できていない。電気も水も電波もないため池端氏を含め被災者も情報が取れない。そんななかで助けを待っていても何も始まらない。とにかく目の前の人を助けなければ。そう強く思ったのだという。