戦争と「戦う」ウクライナのサッカーファミリーを思う
2014年のドンバス紛争でホームスタジアムを追われたサッカークラブ
彼らの苦難は、国際安全保障環境の大きな変化によってもたらされた。それを見るために、何十年か時計の針を戻してみよう。 第2次世界大戦後から1980年代末まで続いた冷戦期において、ウクライナは、ロシアと同じく、ソ連を構成する1つの共和国だった。冷戦期には、アメリカ、西ヨーロッパ諸国、日本からなる西側陣営と、ソ連、東ヨーロッパ諸国などからなる東側陣営は、数万発もの核兵器をお互いに突きつけながら激しく対立していた。 しかし、経済的にも技術的にも東側は西側に大きく後れを取り、東側が解体する形で冷戦は終結した。1991年12月にはロシアもウクライナもソ連から離脱、それぞれロシア連邦とウクライナとして独立国となり、ソ連は消滅した。この冷戦後の時代、かつて東側としてソ連と同盟を結んでいた東ヨーロッパ諸国は、「ヨーロッパの一員」となることを目指し、ロシアの影響下から脱して、経済においては市場経済化、政治においては民主化、安全保障においては北大西洋条約機構(NATO)への加盟を進めていく。 一方ロシアは、エネルギー資源の開発に成功して経済的に安定したこともあり、米欧と距離を取り、旧ソ連圏における主導的地位を維持強化することで自らの勢力圏構築を図った。こうした中、旧ソ連の一員でありながらもロシアとは複雑な歴史を持つウクライナは、親ロシア的な政策と「ヨーロッパの一員」となることを目指す政策といずれを追求するかで国内が二分された。そして最終的には2013~14年に「マイダン革命」と呼ばれる政変があり、親ロシア派政権が倒れ、米欧に接近していく方向を取っていくこととなった。 シャフタール・ドネツクとゾリア・ルハンシクの運命が大きく変わったのはこの時だった。「マイダン革命」直後の2014年春、ソ連時代からウクライナ共和国の領土とされていたクリミア半島に、ロシア軍とみられる部隊が展開した。そして、国際社会の反対を無視して「住民投票」が強行され、最終的にクリミア半島そのものをロシアが併合した。さらに、ドンバス地方と呼ばれるウクライナ東部で、ロシア軍の支援を受けたとみられる親ロシア派武装勢力が、ドンバス地方のウクライナからの分離独立を目的として戦闘を開始した。 ウクライナ軍は劣勢に立たされ、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」として、ドネツク州の一部とルハンシク州(ウクライナ語読みで「ルハンシク」、ロシア語読みで「ルガンスク」となる)の一部がウクライナから切り離されてしまった。この、切り離された部分に、シャフタール・ドネツクの本拠地であるドネツク市と、ゾリア・ルハンシクの本拠地であるルハンシク市が含まれていた。そのために両チームともホームスタジアムを追われてしまったのである。