「7歳までは神のうち」 明治中期、農村で大人になれた子どもは10人中7人
赤子の世話をする子ども
「乳幼児期の死亡率」について考える前に、先ほどの写真をもう一度見てみたい。よくよく目をこらすと、何人かの女児の肩の上辺りに、赤子の顔が確認できるはずだ。 ほとんどの赤子の顔は、大きくぶれていて、しっかり写っていない。これは、明治中期のカメラでは、20~30秒ほど撮影時間が必要だったからである。子どもは頑張って動かずにいたようだが、赤子の方はそうはいかない。その結果、このようにぶれた写りとなってしまっているのである。 現代の日本で、日常的に赤子を世話するのは、多くの場合は親である。あるいは、祖父母などの親族か、保育士だろう。しかし、この写真が撮られた当時、赤子は女児が世話をするものと決まっていた。米国人の紀行作家エリザ・R・シドモア(1856-1928)は、このことについて、次のように記録している。 女の子は歩けるようになると、すぐ注意深く安全に物を運ぶ練習をするため、背中に人形をおぶります。その後、幼い弟や妹が人形を引き継ぎます。 ―エリザ・R・シドモア著、外崎克久訳『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫)、42ページ 特に農村の仕事において、男女は平等だった。誰もが、田畑を耕し、農作物を回収した。だから、両親やある程度成長した子どもに、子守をする余裕はない。そこで、「まだ労働力にはならない年齢の女子が赤子の世話をする」という、今ではほとんど見られない光景が一般化したのだった。 それでは、その赤子たちの未来には、何が待っていたのだろうか。江戸時代中・後期における濃尾地方の調査では、一歳未満の乳幼児の死亡率は10パーセント台後半という結果が出ている(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)。ほかの調査でも似たような数字となっており、江戸時代中・後期の農村においては、概ね2歳になるまでに2割の子が死亡していたと考えてよいだろう。 7歳までは神のうち――かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単に言えば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。女児の背中に括られていた赤子は、いつ神様の元に帰ってしまうかわからない「脆い存在」だった。