前代未聞の引退劇 天才と呼ばれた新井田豊は何を思い、世界王座を返上したのか…後編
忘年会の1次会が終わり、ほろ酔い気分の新井田だったが、関の言葉に一気に酔いがさめた。 「世界戦やるから」 たったこれだけの言葉でも、関の表情から冗談ではないことが瞬時に見て取れた。「まさか、そんなことを言ってくるとは思わなかった。自分は現役ではなく、トレーナーですよ」と、当時を振り返った新井田だが、心の中では「またリングに上がれる」と、飛び上がるほどうれしかった。決断は早かった。翌日、バンテージを巻き、グラブを握り、ジムのリングに立っていた。 世界挑戦は2003年7月に設定された。調整期間は実質6か月しかない。トレーナーとはいえ、ボクサーとしての練習は1年以上も遠ざかり、ゼロからのスタート。復帰戦がいきなりの世界戦という強気なマッチメーク。これはジムの先輩で2階級制覇王者の畑山隆則と同じケース。「新井田なら大丈夫だろう」という期待を込めてのものだが、体を現役モードに戻すのはつらく、過酷なものだった。かつてのロードワークはジョギング程度のスピードになり、他の選手に全くついていけなかった。それでも関の熱意に応えたいと、歯を食いしばり、新人時代を思いだし、汗を流した。 復帰へ向けてのもう一つの敵は、周囲からの心ない言葉だった。確かに新井田は恵まれていた。自分の意思だけで引退を決め、それだけでも関係者から非難を受けた。当然と言えば当然だが、今度は復帰戦でいきなり世界戦が用意されるという厚遇ぶり。「わがままなこと(引退)をやっておいて、また世界挑戦するなんて」とボクシング界だけでなく、一般人からも厳しい言葉をかけられた。復帰前の繊細な新井田ならば、このプレッシャーに押しつぶされていたかもしれない。だが、この時点では変わっていた。「それだけのことをしたのだから、言われてもしょうがない。結果で応えるしかない」と、腹をくくった。 2003年7月、WBA世界ミニマム級王者ノエル・アランブレット(ベネズエラ)に挑戦したが、判定負け。プロ初黒星を喫して王座返り咲きはならなかった。最終12ラウンド終了のゴングを聞くと、負けを確信した。「まぁ、そうだろうな。そんな甘い世界ではない」と、初めて味わう厳しい現実を素直に受け入れた。 新井田への期待はそれでも薄れることはなかった。そして、どこまでも恵まれていた。1年後の2004年7月にアランブレットと再戦する。王者がウェートオーバーで計量をパスできず王座剥奪(はくだつ)となる失態を演じるが、試合は新井田が12回判定勝ち。雪辱を果たすとともに3年ぶりの王座返り咲きを果たすと、気持ちの変化にも気付いたという。 「初めに世界を取った時と、2回目の時とでは明らかに気持ちに変化がありました。昔は自分だけのために、自分が勝つことだけを考えていましたが、それが『これだけ周りが助けてくれた、そのためにも勝ちたい』という気持ちになっていた。負けられないという気持ちがより強くなっていたんです。もうひとつ違ったのは、前より精神的に余裕ができていたこと。以前はずっと張り詰めていて、本当に余裕がなかった」 2度目の王座を7度防衛すると、2008年9月のV8戦は指名試合として1位のローマン・ゴンサレス(ニカラグア)の挑戦を受けた。ボクシングファンならば誰もが知る存在。当時20戦全勝(18KO)というパーフェクトレコードを誇り、最軽量級にあって驚異的なパンチ力を持ち、すでに挑戦する時点で世界的に名の通った選手となっていた。 そのゴンサレス戦に向け調整中の6月、会長の関がジムで倒れ、救急搬送されたが、くも膜下出血のため急逝した。ボクシングの育ての親を失った新井田のショックは計り知れない。気丈に振る舞い、必死に調整に励んだが、試合への影響は明らかだった。「そんなことを言ってられないぐらい試合直前の出来事でした。やはり精神的な影響はありました」 ゴンサレスは想像を超えるボクサーだった。初回、挑戦者の右フックで鼓膜が破れた。ジャブというストレート、アッパーを受けた右目は腫れ上がり、視界が塞がる。4回、ドクターチェックで続行不能と判断され、TKO負け。4年2か月守り続けた王座を手放した。 「試合をしていて面白いという感情がわいてきたんです。やりながら『こういうふうにジャブを当てるんだ』と感心してしまった。本当に全部が芯をとらえるパンチで、全部に体重が乗っていた。正直、あんな右をもらったのは初めて。だいたいの相手は攻めてきてもさばける自信はありましたが、ゴンサレスは無理でした」 そのゴンサレスは新井田から奪った王座を第一歩に、世界4階級制覇を達成。軽量級で世界最高峰の評価を得る選手にまで上り詰めていった。 ゴンサレス戦から2か月がたち引退を表明すると、2010年11月に横浜市都筑区にフィットネスジム「BODY DESIGN 新井田式」をオープンした。ボクシング協会には加盟しておらず、プロを直接育ててはいないが「ボクシングを本格的に習いたい」「今後プロになりたい」という会員が多くいるという。中には現役時代の後援者の孫で、空手の世界大会で優勝経験のある高校2年の西沢太壱という有望株も連日、ジムで汗を流している。「初めてトレーナーになった頃は、ボクシングを教える壁にぶつかりましたが、今は経験があります。選手を育てるということには興味があり、プロの選手を育てたいという気持ちも自分の中にはあります」と今後、プロ養成に踏み出す可能性もゼロではないという。 現役時代、新井田はごくわずかな近しい人間にしか本音を明かさなかった。世界王者という頂点に立ちながら、自らの声で何かを発することなく引退した。腰痛に悩まされていたという発表はあったが、それが引退の直接的な要因ではないはずだ。今、あの時の決断をどう感じているのだろうか。 少しの間を置き、新井田の答えは、意外にも感謝だった。 「後悔はありません。でも、若い時の考えと、今の考え方は違う。間違った判断をしましたが、周りの人間に助けられました。辞める時も、復帰する時も。自分は本当に恵まれた環境でボクシングができたんだと思います」(近藤 英一)=敬称略、おわり ◆新井田 豊(にいだ・ゆたか)1978年10月2日生まれ。神奈川県横浜市出身。96年に横浜光ジムからプロデビュー。2001年1月に日本ミニマム級王者となり、同年8月にWBA世界同級タイトルを獲得。その2か月後に突然、引退を表明するが、2003年7月に再起すると1年後に2度目の世界王座を獲得。7度の防衛に成功し、08年12月に引退。現在は横浜市営地下鉄 ブルーラインのセンター北駅から徒歩2分の場所にフィットネスジム「BODY DESIGN 新井田式」をオープン。究極のボディーづくりを実践している。プロ戦績は23勝(9KO)2敗3分け。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。
報知新聞社