京都を近代化した偉人・明石博高を支えた幕末志士ネットワークとは?平野国臣と「殉国志士葬骨記」
■ 頼三樹三郎とは、どのような人物か 頼三樹三郎(1825~1859)は、文政8年(1852)5月26日、漢詩人・儒学者・歴史家である頼山陽の3男として京都に生まれた。1843年(天保14)、羽倉簡堂に同行して江戸に出て昌平坂学問所で学び、嘉永2年(1849)年に帰京した。 梁川星巌ら即時攘夷派の志士たちと交流し、安政5年(1855)の戊午の密勅を実現するため大いに志士活動を展開した。しかし、安政の大獄が始まると連座して捕らえられ、翌安政6年(1856)に江戸評定所で尋問を受け、死罪となった。 なお、江戸の即時攘夷の中心人物である儒学者の大橋訥庵によって、回向院に葬られたが、文久2年(1862)に死罪御免となり、高杉晋作・伊藤博文らによって、吉田松陰とともに松陰神社境内に改葬された。明石は、この頼とも深く交流しているのだ。
■ 平野国臣とは、どのような人物か 最後に、明石と最も関係が深かった尊王志士の平野国臣(1828~1864)との関係を紐解いておこう。まずは、平野について、どのような人物であったのか、触れておきたい。平野は、文政11年(1828)に福岡藩下級武士に生まれ、通称として次郎を名乗った。平野は国学、和歌、有職故実を学び、王朝の風を慕って総髪としていた。 安政5年(1858)、脱藩して上京し、安政の大獄の追及を受けた僧月照を、西郷隆盛に頼まれて鹿児島へ逃亡させた。西郷が月照と錦江湾に飛び込んだ時、平野は同船しており、救出に努めた。文久2年(1862)、島津久光が率兵上京した際、義挙を促そうとしたが上手くいかず、義挙を目指す薩摩藩士や浪士たちと即時攘夷のための挙兵を企てたものの、寺田屋事件で頓挫した。平野は福岡藩に送り返され、投獄されたのだ。 翌文久3年(1863)、罪を許されて上京し、孝明天皇の大和行幸(親征)による攘夷実行計画に参画した。その際、即時攘夷運動のリーダー的存在である、中山忠光らによる天誅組挙兵を止めようと説得にあたったが失敗し、その間に8月18日の政変が勃発した。その後、平野は七卿落の1人である沢宣嘉を奉じて、但馬生野で倒幕の挙兵をしたが、豊岡藩兵に捕らえられ、京都の六角獄舎に収容された。いわゆる、生野の変である。 元治元年(1864)、禁門の変が勃発すると、京都所司代配下の役人らは平野たち囚人が脱走し、治安を乱すことを恐れたため、平野は他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37歳であった。