京都を近代化した偉人・明石博高を支えた幕末志士ネットワークとは?平野国臣と「殉国志士葬骨記」
(町田 明広:歴史学者) ■ 明石博高の志士ネットワーク 明石博高は、錦小路頼言の門下となった関係から、三条実美や岩倉具視の知遇を得た。さらに、西郷隆盛、梅田雲浜、頼三樹三郎とも交流し、中央政局における激動の苛烈な幕末政治史を目撃したのだ。 【写真】明石と最も関係が深かった尊王志士の平野国臣 明石自身は、幕府が結んだ通商条約を破棄し、攘夷を実行する破約攘夷運動に巻き込まれることなく、一定の距離を取ってはいたものの、即時攘夷の嵐が吹き荒れる京都に住み、運動にまい進する志士たちと交流を重ねた。なお、明石は大田垣蓮月、高畠式部などの女流歌人とも深く交遊している。 ちなみに、時期ははっきりしないものの、明石は伊藤博文と蘭医学関連で知遇を得たとあり、明治14年(1881)には伊藤を自宅に招待して、歓談している。また、明石は松方正義とも文通していた。明石の幅広いネットワークには、驚かざるを得ない。 では、明石と交流があった志士の中から、特に関係が深い人物を紹介してみよう。
■ 梅田雲浜とは、どのような人物か 梅田雲浜(1815~1859)は、文化12年(1815)6月7日、若狭(福井県)小浜藩士矢部氏の次男に生まれ、後に祖父の生家梅田氏を継ぐことになった。江戸に出て、崎門学(近世初期の儒学者の山崎闇斎の提唱した学問)を山口菅山に学んだ。この時、尊王攘夷に目覚めたのだ。梅田は一旦帰藩した後に京都に出向き、崎門の学塾である望楠軒の講主となり、梁川星巌や頼三樹三郎ら過激な志士たちとの親交を深めた。 嘉永6年(1853)のペリー来航時には、梅田は江戸で吉田松陰らと対策を議論しており、その足で水戸へ遊説に出かけている。また、大坂湾に突如現れたロシア使節プチャーチン率いるロシア艦隊への攘夷実行や、京都の守護ために近隣の郷士を任ずる周旋活動を積極的に行った。 安政3年(1856)、梅田は長州藩に遊説して吉田松陰と接触し、京都・奈良・十津川間の物産交易の仲介をした。実は、松陰が安政の大獄で反幕的な容疑をかけられたのが、この梅田との接触にあった。梅田は、関白九条尚忠の裁可を経ず、さらに、幕府も経由せずして水戸藩に勅諚を下すことに成功した、いわゆる戊午の密勅にも大きく関わっていた。 密勅降下の際、事前に水戸藩に内々に知らせるなど、即時攘夷運動の中心メンバーとして活躍したことは特筆すべきである。こうした経緯が仇となり、梅田は安政の大獄のスタート段階で捕らえられ、江戸小伝馬町の牢屋で獄死した。明石は、この梅田と積極的な交流をしているのだ。