サウジがイランと断交 中東を揺るがしかねない対立の歴史
中東では、サウジアラビアとイランの対立が激化しています。発端は、1月2日にサウジアラビア政府が、政府を批判する抗議運動を行った罪で逮捕されていたシーア派指導者ニムル・ニムル師の処刑を発表し、これに反発した群衆がイランにあるサウジ大使館を襲撃したことでした。これをきっかけに、サウジはイランとの断交を宣言。7日、今度はイランがイエメンにあるイラン大使館がサウジによって「意図的に」空爆されたと発表。サウジはこれを否定していますが、両者の対立は中東全体を揺るがしかねないものになっています。(国際政治学者・六辻彰二) 【図】イスラム教「スンニ派」と「シーア派」違いは何?
スンニ派とシーア派の盟主
サウジアラビアとイランは、どちらもイスラムの大国でありながら、もともと相いれない関係にありました。その大きな背景には、サウジとイランが、それぞれイスラムのスンニ派、シーア派の中心地であることがあります。 スンニ派とシーア派は、イスラムが生まれた7世紀に分裂。最初の原因は、誰がカリフ(預言者ムハンマドの後継者)にふさわしいかをめぐる意見の不一致でした。この「イスラム共同体はどうあるべきか」をめぐる宗教的な対立は、やがて多数派(後のスンニ派)と少数派(後のシーア派)の間の政治的な対立に発展。イスラム初の王朝、スンニ派のウマイヤ朝に反旗を翻すため、シーア派が擁立しようとしたフサイン(ムハンマドの孫)がウマイヤ軍に襲撃・殺害されたカルバラー事件(680年)は、両派の対立の分岐点になりました。
両派の対立は、現代にまで通じています。1979年にイランで、イスラム革命が起きて世俗的な国王による専制が打倒されると、サウジアラビアをはじめとするペルシャ湾岸の君主制国家は「革命の輸出」を警戒。翌年に始まったイラン・イラク戦争では、スンニ派で共通するサダム・フセインのイラクに軍資金を提供しました。こうして、宗派の違いと政治的な対立が連動する構図が、それぞれの宗派の中心地であるサウジとイランの間で定着したのです。 現代ではサウジとイランの間で、一つの国の異なる勢力を宗派に沿って支援する「代理戦争」もみられます。イエメンでは2015年1月に内戦が発生しましたが、イランはスンニ派中心の政権を首都から追い出したシーア派武装組織「フーシ派」を支援。一方、サウジなどはイエメン政府を支援して、2015年3月からフーシ派への空爆を行っています。