なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される!? 皇族の教育方針の歴史
今年、悠仁さまが四人の研究者と共に「皇居のトンボ相」の研究成果を発表された。上皇(平成の天皇)や昭和天皇も生物学の研究をされていたが、なぜ「生物学」なのだろうか? 皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。 ■乃木希典が発案した「帝王学のための学校」とは? 昭和天皇のための「帝王学」の授業とは、いかなるものだったのでしょうか。のちにヒドロゾアなど、海洋生物の研究で世界的に有名になられた昭和天皇ですが、小学校に相当する学習院初等科を卒業すると、中等科には進学していません。 しかし、東京・高輪の東宮御所内に、学習院の院長だった乃木希典の発案で創設された「御学問所」にて、5人のご学友たちとともに個人授業を13歳から19歳まで受けておられます。 将来の天皇にふさわしい「帝王学」が授けられる学校が、皇太子時代の昭和天皇こと裕仁親王のためだけに建てられたというのはスケールの大きなお話です。将来の天皇のための教育は、一般人の教育とは異なり、あくまで「特別」であるべきであると誰もが信じていた時代の産物ですね。 ■馬術や軍事学もあるが、重視されるのは「倫理」 注目すべきカリキュラムは「倫理、国文、漢文、歴史、地理、地文、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済(大竹秀一『天皇の学校』)」でした。 これらは通常の当時の中学ではありふれた科目ばかりでしたが、「御学問所」では馬術、軍事学の授業もあって、これらは戦前の男性皇族は、みな軍人になるべきという時代の空気を反映した結果だったと思われます。 しかし全科目の中でもっとも重視されたのは「倫理」で、担当は日本中学校という私立学校の校長をしていた杉浦重剛。彼は「宮中某重大事件」で、裕仁親王にアドバイスをした人物です。 「宮中某重大事件」とは、裕仁親王が当時婚約していた久邇宮良子女王の家系に、色盲の遺伝があることが憂慮されたという事件でした。山縣有朋などの政府有力者による婚約破棄論も唱えられましたが、杉浦は悩める裕仁親王に向かって、「婚約破棄は倫理に反する」とアドバイスし、実際に親王は初志貫徹で良子女王と結婚することができました。 ■「歴史を学びすぎると危険」と、生物学に方向転換 少年時代の昭和天皇がもっとも好んだ科目は「歴史」の授業でした。しかし、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視されたので、歴史と同じくらいに興味が深かった生物学に関心が向かうようになったそうです。 昭和天皇ご自身が、1976年(昭和51年)11月の記者会見で「歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになりました」とおっしゃっていますが、そうなるように周囲が天皇を指導したことも「帝王学」の一貫だったといえるかもしれません。 ■じつは運動神経がバツグンだった昭和天皇 昭和天皇には、余暇は皇居内の研究室ですごした生物学者という一面がおありで、日常生活においても、どちらかというと不器用だったという逸話が散見されるのですが、運動神経は抜群でいらっしゃいました。 1916(大正5年)、裕仁親王は正式に皇太子となり、病中の大正天皇の名代として、ヨーロッパを訪問なさっています。当地では「御学問所」で学んだ乗馬の技術だけでなく、ゴルフ、テニス、スケート、スキー、登山など様々なスポーツを経験し、日本に戻った後も続けていると知れ渡ると、右翼や国粋主義者から「西洋かぶれ」との批判を受けたことまであったのです。 明治時代以前の天皇はどちらかというとインドアな存在だったのですが、昭和天皇の時代にはスポーツで身体を鍛え、汗を流す健康な存在であることが盛んにアピールされるようになり、理想とされる天皇像が大きく変化していたことがうかがえて興味深いですね。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹