京都の宇治に出現した「任天堂ミュージアム」の全貌、なぜ今、テーマパークとは異なる“展示施設”を作ったのか
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどで展開する「スーパー・ニンテンドー・ワールド」のようにIPを全面に打ち出したテーマパークとは一線を画し、商品や遊びを通じて「任天堂」を知ることができる施設となっているのだ。 ■「そんなもんやめとけ」と言われただろう 任天堂は世界的なエンターテインメント企業でありながら、商品開発の舞台裏などについては積極的に発信してこなかった。「お客さんとは商品を通じてコミュニケーションするとずっと決めてきた。山内(創業家出身の3代目社長・山内溥氏)がいたら(ミュージアムについて)『そんなもんやめとけ』と言うだろう」(宮本氏)。
ではなぜ今、このような施設を作ったのか。 1つには、長年任天堂を支えてきた宇治小倉工場の活用方法や、社内で蓄積された資料の保存方法について検討されていたことがある。 1969年からトランプ・花札の製造やゲーム機の修理業務などを担ってきた宇治小倉工場は、2016年に業務を宇治工場(宇治市槇島町)に移管。その後は倉庫として利用されていたが、近鉄小倉駅周辺の活性化を図る宇治市の意向も後押しとなり、ミュージアムとしてリノベーションすることとなった。
さらに宮本氏がミュージアム開業の狙いとして言及したのが、“任天堂らしい”ものづくりを伝承していくことだ。 実はこのミュージアム、宮本氏が毎年新入社員向けに話している講義の内容が展示のベースとなっている。 ゲーム機で言えば、十字ボタンが生まれたゲーム&ウオッチ、2画面とタッチペンを使うニンテンドーDS、リモコン型コントローラーを振って操作するWiiなど、任天堂は世の中に存在しなかったようなアイデアで新たな遊び方を提案してきた。
「新しいものを作るチャレンジをする一方で、ベースに流れている、家族や遊び、わかりやすさといったコンセプトを守って作っていこうというのが社員に根付いていけば、ずっと新しい任天堂が膨らんでいく」。宮本氏はそう強調する。 ただ、近年はゲームの開発規模が拡大傾向にあり、開発に携わる社員の数も増えている。任天堂の連結従業員数は、ニンテンドースイッチ発売後の7年間だけでも、5166人から7724人へとおよそ1.5倍となった。会社がますます大所帯となり世代交代も進む中で、”任天堂らしい”商品を生み出し続けるためには、過去の開発者たちが商品に込めてきた思いをいかに社員に伝えていくかが課題だった。