上田誠仁コラム雲外蒼天/第47回「不測を楽しむくらいのメンタリティーを」
ノンアテンドの海外遠征
そこから車で50km 離れたイタリアのヴェンティミーリア駅まで移動。列車に乗り換えて約2時間かけて目的地のサヴォーナに到着となる。 ここで数日間の調整となるのだが、直面するのが冒頭の円安ユーロ高である。 しかし、北イタリアの港町でもあるので、安価な市場のイートインとテイクアウトを幾度か利用させてもらった。夜21時50分スタート予定のレースを終えてホテルに帰ってくると深夜になる。市場でピザとチキンローストをテイクアウトし、部屋の冷蔵庫で保管しておいて、ホテルの電子レンジをお借りして温め直していただいたりもした。 肝心のレースは、出場エントリー一覧を見ると3組では入りきらない人数で、どのように組分けするのかを杞憂した。会場となるトラックは6レーンしかない。ウォ―ミングアップエリアはフットサルのコート1面。チェックインを待つホテルのロビーでウォ―ミングアップをしているようである。 正式な組み編成とレーンが提示されたのはスタート1時間前。結果的にスタート時間は40分ほど遅れた。 国際レースは、日本国内の自己公認記録ではなくWRkという世界陸連が認定したワールドランキングコンペティションで出した記録にて判断するという制度。今回もこの制度の適応となった。最終的に2人ともB組になり、ペースメーカーを含め11名での出走となった。 なんと各レーンに2名ずつのスタート。スタート位置は北村君が1レーン内側、石元君が4レーン内側。ペースメーカーの予定が400m50秒50との提示があったが、スタート直前のB組の話し合いで51秒5となった。 スタートでは両名とも同じレーンの外国人選手に遅れをとり、しかもオープンとなった時点で2人とも集団の後方からのレースとなった。2周目も集団は崩れず、集団の前に出るには相当のエネルギーを使ってしまった。 帰国後、関東学連中距離担当松井一樹氏からは、「現在、日本記録保持者の川元(奨・スズキ)君も海外のレースで自分の走るポジションを確保するのに苦労してきた。集団の中で自分の走りやすいポジションを確保するためには、初速の速い海外レースを体験し、そのことを生かして行かなければなりませんね」と語ってくれた。 レースを終え、私からは「スタートの出遅れを中盤で回復し、最後でのスプリント勝負に持ち込めるほど世界は甘くはない。その感覚を持ち帰らなければ800mをやっていく価値はない」と多少厳しいコメント二人に発した。 その言葉を受け、若き2人のランナーが、「体格も走るリズムもまったく違う選手に混じり、勝ち切るパフォーマンスを発揮するには、まだまだやらなければならないトレーニングがある。スタートラインに立つ時の各国の選手の気概の違いを感じた」と語り合っていたのが頼もしい。 海外遠征は常に不便で不慣れがつきまとう。不平不満を募らせている場合ではない。不測の事態など当然のように降りかかる。それに対応・対処しつつ、それを楽しむくらいのメンタリティーが求められる。 食事や言語・習慣、風習など、それをストレスと感じずにレースでベストパフォーマンスを発揮できるような選手に育ってゆくことを期待したい。 そして、パソコンに向かいつつも、テレビからは開幕直後のパリ五輪の放送が気になってしまう。日本代表選手は、いくつもの海外遠征や世界大会を積み重ね、さまざまなプレッシャーをも乗り超えてきたアスリートである。 しばらくはアスリートの頂点を目指すオリンピアンの熱き戦いに、7時間の時差を乗り越えてエールを送りつつ、中継から目が離せない日々を送りそうだ。 上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。
月陸編集部