漱石の日記にも登場 経済人逝去の大ニュースは弥太郎以来 雨宮敬次郎(上)
明治期に活躍した実業家、雨宮敬次郎は甲州財閥の一人で、「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた投資家でもありました。のちに甲州財閥と言われる一人となりましたが、もとは父親からもらった1両を握りしめ開港したばかりの横浜にやってきた田舎の少年でした。その少年がやがて経済界の重鎮となり、多くの人々から尊敬を集め、惜しまれて世を去っていきます。その豪胆な投資家の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
経済人の逝去が大ニュースになったのは岩崎弥太郎以来
1911(明治44)年1月20日、「天下の雨敬」雨宮敬次郎が死んだ。それは大ニュースだった。折しも幸徳秋水による大逆事件の判決(幸徳秋水ら24名に死刑判決、翌日12名が無期懲役に減刑されるも、1週間後に処刑)が出た直後で物情騒然たる中、各紙は雨敬の死を大きく報じた。臨終の枕元で安田財閥の祖安田善次郎が語りかけた。 「雨敬さん。病気は大丈夫ですよ。全快するから心配なさるな。今日松方(正義)侯に面会したが、明日は見舞いに行くといっておられた。安心して気長く治療なさるがよい」 雨敬は安田の言葉に「ありがとう」と答え瞑目し、黙想すること20分、にわかに呼吸が荒くなる。 「思い残すことはありません。さようなら」と言って息を引き取った。 雨敬が逝去する直前の肩書きは次の通り。東京商品取引所理事長、熱海鉄道、江ノ島電鉄各社長、日本防腐木材、川越鉄道、北海道炭鉱汽船、山梨軽便鉄道、静岡鉄道、武相中央鉄道各取締役など。 死亡広告には友人総代として前記の安田善次郎以下、2代目田中平八、井上角五郎、岩田作兵衛ら錚々たる名前が並んだ。朝日新聞は雨敬の生涯や人柄についてくわしく報じた。 「1870(明治3)年郷里を辞してまず横浜に赴き、わずかの資本で洋銀(為替)相場に手を出し、1876(同9)年西洋各国の蚕業不作なりと聞き、生糸、蚕種紙の騰貴すべきを信じ、大いにこれを仕入れようと思い、所持していた銀時計を、質に入れ、金1円50銭を得、これを旅費に当て、昼夜兼行、郷里に帰り、人々に謀りて1000円余の繭を借り受け、急いでこれを生糸にして横浜に売り、3000円を得たり」 また、雨敬と親交のあった鬼怒川電鉄社長(後に小田急電鉄社長)の利光鶴松の談活が雨敬の業績を端的に物語っている。 「雨宮君は政権や財閥の保護を受けず、全く独自、一個の奮闘によって、何びとの助力も受けず、種々の事業をやったのは偉い」と次のように述べている。 「人物の価値については色々いう人があるが、事業家としての道義上においても傑出した点があった。大ていの事業家は事業そのものに死に身になれず、権利株を売り飛ばしたり、株を売って金もうけをしようとのみ心掛けているが、雨敬君はその身体も、その財産もすべて事業に賭けて、一身を事業の盛衰と共にするだけの雄々しい信念と覚悟があった。要するに雨敬という一人物について学ぶべき点は事業に熱心であったこと、精力の旺盛であったこと、不撓不屈の奮闘精神があった点である。人物がどことなく鷹楊で大きかった」 当時の国民的人気者は大相撲の常陸山、梅ヶ谷であったが、徒手空拳で上京し、獅子奮迅、一代で巨富を築いた雨敬の生涯が市民の称賛を浴びたのだ。かつて三菱財閥の始祖・岩崎弥太郎が死んだとき、3万人とも5万人ともいわれる東京市民がその葬列に加わって大ニュースとなったことがある。経済人の死が大きく報じられるのは岩崎以来のことかも知れない。