漱石の日記にも登場 経済人逝去の大ニュースは弥太郎以来 雨宮敬次郎(上)
文豪・夏目漱石の日記にも登場
雨敬の死から5カ月後、夏目漱石の日記に雨敬の豪胆振りが記される。要約すると以下のようになる。 1、雨敬は紳商(紳士と称されるほどの身分の商人)であった。 1、雨敬は花札が好きで、2晩続きで徹夜することもあった。 1、雨敬は花札で負けが込んできても、平然としていた。 1、「神色自若」たる態度であった。(神色=顔色。自若=大事に直面しても沈着冷静で態度は平常と少しも変わらぬさま) 1、名門久松家が甲武鉄道の株をどっさり買ったのは、雨敬のようなハラの座った大物が投資をしている会社なら安心できると、雨敬にチョウチンをつけたこと。 勝負事は人格がよく表れるといわれるが、花札賭博で負けが込んでくると、目が血走って電話口に呼び出されてもうわの空で話にならない人が多い中で、雨敬だけは平常心を保ち続けた-と漱石を感服させた。 19世紀最強の相場師といわれた「天下の糸平」こと田中平八とは無二の親友で、糸平が他界したとき、記念碑を建てることになり、碑文を巡ってかんかんがくがくの議論になった。この時、雨敬が「ごたごた長い文章じゃいらない。『天下の糸平』だけでいい」と結論づけた。その碑は東京隅田川の左岸、木母寺の境内に今もそびえ立っている。 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 雨宮敬次郎(1846-1911)の横顔 1946(弘化3)年甲斐国牛奥村(山梨県塩山市)に生まれる。9歳で甲州随一の学者古屋同斉について学ぶ。14歳のとき、父にもらった1両を元手に商売の道に入る。18歳ころ横浜に出て蚕糸関連(種紙、繭、生糸、絹織物)の取引で一攫千金を夢見るが、失敗して自殺しようとする。が、それもできず帰郷。1872(明治5)年(一説には1970<明治3>年)捲土重来を期して横浜に出て、蚕糸、為替の売買に従事。1878(同11)年、蚕種紙焼却事件では主導的役割を果たす。株、公債や土地の売買で巨利を占め、鉄道経営で巨歩を残す。