〈日本のメディアの大谷翔平報道は過剰すぎ?〉価値をむしろ下げるリスクも、問われる取材姿勢
日本のスポーツ報道は「チアリーダー」
新聞社の記者として米大リーグを取材した経験もある筆者にも、この手の取材手法に関する批判は耳の痛い話ではあるが、的を射ているのも事実だ。日本メディアも監督などの「囲み取材」では、米メディアの取材の流れを汲み、終盤に日本人選手に関する質問をするなどの配慮はしている。また、同僚の選手たちが大谷選手が節目の記録を達成したり、勝利を貢献した場合にどう思っているかということは、大谷選手を報じる上では重要な要素でもある。 ただ、日本メディア(記者)の数はとても多く、それぞれが個別に聞けば、同僚の選手は何十回も同じ質問に答えることになる。このことで、日本メディアを疎ましく思う選手がいてもおかしくはないだろう。 内野氏も「僕らが今日、大谷の活躍に一喜一憂できるのは、日本のメディア関係者が時に『岩によじ登って』でも大谷の一挙手一投足を追いかけ、その詳細を日々伝えてくれるからだ。メディアが伝える大谷の姿を見ていると、彼の存在が『日本人』の国際的な価値を高めてくれているようにさえ感じる」と評価する一方、「しかし、その舞台裏ではもしかすると、大谷を取り巻く日本のマスコミ関係者が白い目で見られているのかもしれない。最悪の場合、彼らの身勝手な行動が『日本人』の国際的な評価を貶めてさえいるかもしれない」と廣部氏と同様に懸念する。
もちろん、読者の関心の高いニュースを届けることは、メディアの大事な使命である。特に新聞などの活字メディアは従来、一つのプレーの裏で、選手がどのような努力を積み重ねてきたか、恩師や家族、同僚との絆の存在など、映像からは見てとれない「エピソード」を紹介することで紙面価値を高めてきた。こうしたエピソードを書くために、「ネタは足で稼げ」という格言がメディアの中には存在する。 一方、内野氏は前述の著書の中で「マスメディアのスポーツ報道はたいていが、アスリートの『見えざる苦労』や『知られざる素顔』を描いたヒューマンドラマに仕上がるのがお決まりのパターンだ。日本球界を長年取材してきた米国人作家、ロバート・ホワイティングが日本のスポーツ報道を『チアリーダー』と表現したゆえんである」と切り込む。 時代は刻一刻と変遷する中で、メディアの報道姿勢も変化を求められているのかもしれない。大谷選手に関しては、スタイリッシュな容姿や、映像からも伝わる圧倒的なパワーやスピードが、活字の表現領域を超越している実情もある。メディアは、表現そのものを放棄し、SNS上のファンの感想や声を紹介してお茶を濁すネット記事も散見されるようになってきた。