出家しても女遊びは止まらなかった! 花山天皇の「すさまじい淫行」とは
大河ドラマ「光る君へ」では本郷奏多氏が演じた花山天皇。彼は、寵愛する妻・忯子を弔うために出家したという妻思いの夫であった。しかし、それとは裏腹に、多くの女性との醜聞にまみれていたことでも知られている。ある母娘と共々ねんごろになって共に子を孕ませたばかりか、自身の叔母を寵愛した後、飽きて実の弟に押し付けたとも。さらに驚くべきは、即位当日の儀式のさ中、聖なる高御座に女を引き入れていかがわしい行為に及んだとまで伝えられている。いったい、どのような人物だったのだろうか? ■高御座に女を引き込んで淫行 高御座とは、いうまでもなく、皇位継承の儀式「即位の礼」などで用いられる天皇の玉座である。八角形の天蓋で覆われ、周りを御帳が取り囲み、必要に応じて上げ下げ(褰帳)したとされる。その役柄の女性のことを褰帳命婦というが、古くは神祇伯の娘など高貴な身分の女性二人が、左右に別れて執り行ったようである。 もちろん、「即位の礼」なるは聖なる儀式というべきものだろうが、あろうことか、即位の当日、その儀式のさ中に、褰帳命婦の一人を高御座の中に引き込んで、配偶、つまり性交した天皇がいたというから驚く。 それが、冷泉天皇の第一皇子・花山天皇であった。花山天皇といえば、溺愛する女御・忯子が懐妊するも急死。それを嘆き悲しんだことが契機となって出家したという御仁である。 もともと、生後10ヶ月足らずで立太子。17歳で即位したものの、わずか2年足らずでの出家であった。それを仕組んだのが藤原兼家だったということも、よく知られるところだろう。花山天皇に後継が生まれれば、兼家と摂関の地位を争っていた異母弟・為光(忯子の父)が外戚として勢威を誇ることになる。 これに危機感を抱いた兼家が一計を案じ、息子・道兼らを使って花山天皇が出家するよう仕向けたというのだ。蔵人弁として天皇に仕えていた道兼が、さも同情するかのように涙ながらに振る舞い、自分も出家するからと偽って天皇を内裏から連れ出すことに成功。元慶寺において戒を受けて剃髪したことを確認するや、手のひらを返して、ひとり寺から逃げ出したのである。 その後、円融天皇と兼家の娘・詮子の間に生まれた懐仁親王が、わずか7歳にして一条天皇として即位したことはいうまでもない。外戚となった兼家が勢威を高め、ついに摂政の地位に登りつめることができたのだ。この兼家による一連の謀は、あくどいとはいえ、見事に結実したという点で、あっぱれと言うほかない。 ■引き入れたのが明子女王だったとしたら 話を本筋に戻そう。花山天皇が即位の日(984年8月)に、高御座の中で、誰とどのような行為に及んだのかという話の続きである。この一連のお話は、平安~鎌倉時代の説話集の『江談抄』や『古事談』などに記されているが、そこには、即位の儀式が始まる直前であるにもかかわらず、太極殿に設けられた高御座の中で、帳を掲げる役柄の命婦(左褰帳)・馬内侍と配偶したと記録されている。 このとき、進行役を務めたのは、天皇の側近・藤原惟成であった。もちろん、高御座の一番近くにいたのも彼である。と、天皇がいる高御座の中から、御冠などに付けられた鈴などが激しく鳴るのに驚いた。 何事が起きたのかと、御簾を開けようとしたところ、即座に天皇が手を出してこれを追い払ったとか。それを見た惟成が、そのまま式典を続行したというから、おそらくはどのような状況担っていたのか悟ったのだろう。要するに、そんな風に悟られるほど、この御仁の淫行さぶりが周りに知られていたということである。 ただし、前述のように、引き込まれた女性を両書とも馬内侍と記しているが、どうやらそれは誤りだったようである。当時の褰帳は、慶子女王(醍醐天皇の十三皇子・章明親王の娘、左褰帳)と明子女王(醍醐天皇の十八皇子・盛明親王の娘、右褰帳)の二人だったはずというのが、多くの識者が指摘するところである。引き込まれたのが左褰帳だったというところから鑑みれば、慶子女王の方だったと考えられそうだ。 ちなみに、右褰帳だったもう一人の明子女王とは源高明の実の娘で、安和の変によって父が失脚したことで、叔父にあたる盛明親王が養女としている。後に、道長の妻となる女性である。もしもこの時、天皇が右の女性、つまり明子を選んでいたとすれば、道長と結ばれることもなかったのかもしれない。 ともあれ、惟成の機転によってことなきを得た花山天皇。これに味をしめたものか、その後も次々と淫靡な行動を繰り返していくのである。よく知られるのが、次なる中摂関家の御曹司・伊周と女性をめぐる騒動「花山院襲撃事件」だろう。 ■姉妹をめぐる伊周との騒動 実は花山天皇、出家したとはいえ、女狂いが止むことはなかった。溺愛していた為光の娘・忯子の死を弔うというのが出家の目的であったにも関わらず、あろうことか、その妹である儼子(四の君)を見初めて、その館(為光邸)に通っていたのだ。 それだけならさしたる問題にはならなかったが、ここでもう一人の人物が登場したことで、厄介なことが起きた。それが、道隆の嫡男・伊周(道長の甥)であった。いうまでもなく、後に勢威を振るう道長のライバルで、伊周もまた、為光の娘目当てにこの館に通っていたことが問題であった。 ちなみに、伊周のお目当ては、為光の三女(三の君)の方である。つまり、伊周は三の君、法王は四の君がお目当てであった。それにもかかわらず、法王が三の君の元に通っていると伊周が勘違い。それが発端となった。 たまたま同じ屋敷で法王と出くわした伊周が激怒。弟の隆家と計るや、兄の意を汲み取った隆家が、武士を引き連れてひと暴れ。挙げ句の果て、法王めがけて矢を放ってしまったというから大騒動となったことはいうまでもない。 幸いにも矢は法王の衣を射抜いただけで終わったが、法王に矢を放ったわけだから、タダで済むわけがなかった。伊周と隆家兄弟は、当然のごとく、左遷させられてしまったのである(長徳の変)。 これを契機として、中関白家の権力が一気に低下。二度と陽の目を見ることはなかった。伊周の勘違いから始まった騒動であったとはいえ、法王も出家の身でありながら、女の元に通っていたことが露見。気まずい思いをしたに違いない。 ともあれ、花山法王の淫乱ぶりは、それだけではなかった。さらに驚くべきは、とある母と娘の親子と関係を結んで、共に子を孕ませたことまで伝えられている。