“超不人気”だった東京の高校野球を「3つの出来事」が変えた! 東京ローカルチーム・桜美林の全国制覇、都立高の甲子園出場、そして……【東西東京大会50周年物語②】
東京の高校野球を変えた3つの出来事③大輔フィーバー
80年夏、西東京大会の都立国立のインパクトがあまりに強く、東東京大会の方は影が薄かったが、実は大変な展開になっていた。 この年のセンバツは、帝京が2年生で後にヤクルトで活躍する伊東昭光を擁し、準優勝していた。夏も帝京が最有力であったが、準決勝で早稲田実の1年生投手・荒木大輔に3安打に抑えられ、完封負けしてしまう。 決勝戦は早稲田実と二松学舎大附の対戦。二松学舎大附のベンチには、現在母校の監督である市原勝人が入っていた。二松学舎大附は1回裏に3点を先制したが、逆転され10―4。この試合も荒木大輔が完投した。 荒木は調布リトル時代に世界大会で優勝し広く知られていたが、当時はまだ1年生。本来エースの芳賀誠が負傷し、急遽投手陣の柱になったけれども、それほど注目されていたわけではなかった。しかし8月11日の甲子園。状況は一変する。 この日の第2試合、荒木は大阪の北陽(現関大北陽)を1安打完封。甘いマスクの1年生は一躍甲子園のアイドルになったのだ。 その後も荒木は無失点投球を続け、決勝戦に進出した。相手は愛甲猛を擁する横浜。荒木は1イニングを無失点に抑えれば、連続無失点の大会記録を達成するところだったが、1回裏に2点を失い、試合途中で降板した。結局横浜が6-4で勝ち、初優勝を遂げた。 けれども荒木の人気はとどまらない。行く所、試合会場はもちろん、当時練馬区の武蔵関にあった練習場にまで多くの女性ファンが詰めかけた。いわゆる「大輔フィーバー」が始まった。荒木は高校3年間で出場可能な5回の機会すべてで甲子園に行っている。3年生の夏の東東京大会の決勝戦の修徳戦は苦戦したが、延長10回にサヨナラ勝ちして甲子園出場を決めた。 3年生の夏の甲子園、早稲田実は準々決勝に進出し、池田と対戦した。この試合、荒木は1回裏にいきなり3番の江上光治に本塁打を打たれる。6回裏には後に巨人の投手として活躍する水野雄仁にバックスクリーンを直撃する特大の本塁打を打たれた。荒木はこの試合、7イニングを投げて被安打17、失点10。スタンドの「ダイスケ・ギャル」たちは涙を流した。 この敗戦は、甲子園にパワー時代が到来したことを象徴的に示すものになった。最後は衝撃の敗戦になったが、荒木の高校3年間は、東京の高校野球人気を決定的なものにした。 桜美林が頂点を極め、都立東大和や都立国立が底辺を広げ、早稲田実の荒木大輔が人気を引き出した。この3つの出来事が短期間に起きたことで、東京の高校野球は大きく変わった。そこにライバルたちの熱き戦いも相まって、発展していくことになる。 (東東京の横綱に上り詰めた帝京、関東一の軌跡~前田三夫と小倉全由、2人の名将~【東西東京大会50周年物語③】に続く)