“超不人気”だった東京の高校野球を「3つの出来事」が変えた! 東京ローカルチーム・桜美林の全国制覇、都立高の甲子園出場、そして……【東西東京大会50周年物語②】
甲子園の名将も心酔、都立校監督が著した“バイブル”
桜美林が優勝した第58回大会の4強は、桜美林、PL学園、星稜、海星とすべて私立であった。前年の第57回大会は習志野、新居浜商、上尾、広島商とすべて公立、その前の第56回大会は銚子商、防府商(現防府商工)、前橋工、鹿児島実と鹿児島実以外は公立、第55回大会は広島商、静岡、川越工、今治西とすべて公立だった。この時代はまだ、公立の優位が続いていただけに、桜美林の優勝は、新しい時代の先駆けだったのかもしれない。 一方東京では、終戦直後の第28回大会に国立の東京高師付が出場しただけだった。東京の加盟校の半分近くを占める都立にとって、甲子園は夢のまた夢だった。 この時代、都立東大和の監督であった佐藤道輔が書いた『甲子園の心を求めて~高校野球の汗と涙とともに』(東宣出版)という本が話題になっていた。たとえ甲子園は遠くても、高校生としての日常が大切であることを説いたこの本は、指導者のバイブルになっていた。79年の甲子園で春夏連覇を果たすなど全盛期にあった和歌山の箕島の尾藤公監督もその一人だった。尾藤は毎年のように選手を連れて東大和を訪ね、都立東大和の選手の家にホームステイをし、合同練習をした。都立東大和OBの話では、現ロッテ監督の吉井理人も箕島時代に東大和に来ていたという。 都立東大和は、78年の春季都大会の決勝戦で帝京に敗れたものの準優勝。関東大会に出場し、夏の西東京大会では優勝候補になった。そして西東京大会では決勝戦に進出。それまで西東京大会はすべて西東京の中の球場で行われていたが、大会の盛り上がりを反映して、決勝戦だけは神宮球場で行われることになった。 神宮球場で行われた決勝戦は打撃戦になり、15―10で日大二が勝ち、都立東大和の甲子園出場はならなかった。けれども都立東大和の健闘は、ほかの都立校にも勇気を与えるものになった。 都立東大和が「元祖都立の星」と言われるのもそのためだ。そして都立校の甲子園出場はその2年後に実現する。ただしそれは都立東大和ではなかった。