⼦どもは⾃分の所有物じゃない。亜希の「清原くん のお⺟さん」としての⽣き⽅
15歳で東京に送り出したのも「信頼」
⾃分で選ぶようにさせたのは、お⺟さんの、亜希さんへの信頼なのではないだろうか。 「そうですね……15歳のときに福井から、昔はパスポートがいるんじゃないかと思うような東京に、出て⾏いきました。⺟は全部、理解して出してくれていたと思います」 もっと⼩さい頃も、お⺟さんにこうしなさいとは⾔われなかった。 「⼩さい頃はとにかく嘘つきで、負けず嫌いでした。リレーの選⼿決めで負けると、私の前には⽯があったからもう1回やり直させて、と⾔ったり(笑)。でもそれぐらい、⾃分のやりたいことや、⼿に⼊れたいものは、⼈がどう思おうが、つかむタイプだったんですよね。 ずる賢いっていうのかな。兄がすごく真⾯⽬な⼈なので、 私のずるを、よく指摘していましたね。確かに幼少期も、⺟からの指摘を受けたことは、そんなにないかもしれません。 ただ料理ができる⼈は、⼀⽣⾷べ物に困らないよと⾔われて育てられました。⺟がずっと⾔ってきたことが今、本当に⽣きているなと思います。やっぱり⾷は、⼈を幸せにできるなって」
野球部でなくバレー部に⼊った⻑男
では、亜希さん⾃⾝の⼦育てでは、⼦どもの決断に意⾒を⾔ったことはあるのだろうか。息⼦さんたちのように能⼒があると、つい⼝を出したくなると思うが……。 「中学に上がるとき、バレーボールを選択するという⻑男に、『なんで?』と⾔っちゃった記憶があります。当時の私の勝⼿な思い込みなんですが、太陽の下で汗だくだくになったり、痺れる寒さの中を⾛ったりするのがスポーツ、というイメージだったので、屋内スポーツをやると⾔ったときに、えっ、と思った記憶があり ます。 ⼩学4年⽣からの3年間は野球をやっていた彼が、中学⽣でやめる理由を、『野球は飽きた』という⾔い⽅をしていたんです。今、は彼のインタビューを⾒ると、当時『飽きた』と⾔ったらそれに返す⼈があまりいないからだという理由もあったみたい。 飽きたという3⽂字は、重い⾔葉だったと再確認しました。 ⼩6の⻑男は、すでに⻑い⾔葉で⾔い訳を作れたと思うんです。だけども3⽂字で⽚付けて、それ以上は聞いてくれるなってことなんですよね。すごく彼らしい⾔い⽅だったなと思います」 「なんで?」と思わず⾔ってしまったあとは、それ以上⼝を出さなかった。いまふりかえると、バレーボールのおかげで、⻑男の成⻑にはプラスになったのだという。 「⾜⾸がすごく強くなって、⾝⻑も伸びました。いつも夜に、電信柱に⾏って、どこまでジャンプできるか練習してましたね。⽇に⽇に、タッチする場所が上がってくんです。そういうことが今につながって、丈夫になって、野球でも怪我をせずに終わることができた。⾜を着地させる動作って、すごく⼤事なんですね」 結局は、正吾さんの好きな道に進むのを⾒守った亜希さん。中⾼の 6 年は野球から離れた あと、⼤学では野球に戻って活躍した。 「⻑男が中学で野球をやめるとき、周りに『なんでやめさせるの?』と⾔われたんです。いや私は、やめさせてないんだけど(笑)。『なんでやめさせた?』という⾔葉にすごく傷つきました。でも、そういうふうに⾒えるんだなって受け⼊れて、多くは語りませんでした。⼦どもたちにそのことについて何か話したことは、ないかもしれないです」 ◇⼦育てについて聞く後編「しつこく聞いても本当の答えはない…亜希が⼦育てで感謝していること」からは、「⼈のせいにしない」⽣き⽅の背景が⾒えてくる。
亜 希、なかの かおり