「電話対応も、夕食の準備も、すべて孝がしてくれた」…「猪口邦子」議員が著書で語っていた亡き夫への“感謝の言葉”
「全部断れ」
《孝を大成させたいという思いは強かったが、もちろん自分自身の研究を軽んじていたわけではない。(中略)いくつかの論文が一つにまとまって、『ポスト覇権システムと日本の選択』(筑摩書房)が出版された。これが私にとっては、邦文では処女出版となった。留学から帰って五年後、一九八七年のことである。》 この本が評判を呼び、テレビや新聞、雑誌などからインタビューの話が来るようになる。 《私は時代の寵児になりつつあった。これまでまったく無名で、地道に学問を追究してきた自分に突然光が当たりはじめたのだ。突然花開いたような、急にセレブになったような、うきうきとしたときめきがあった。》 だが、そこに待ったをかけたのが孝氏だった。 《孝は「依頼を全部断れ」と強い調子で忠告した。なぜそんな過酷なことを言うのかと、私ははじめ反発した。(中略)「あなたはまだ一冊も書き下ろしていないではないか。学術書を本気で書き下ろすべきだ。そのためにはメディアに振り回されているヒマはないはずだ」というのが彼の主張だった。》 確かに厳しいように思われる。だが、同時に孝氏は、自信が編集を務める現代政治学叢書(東京大学出版会)のなかの「戦争と平和」を担当してみないかと勧めた。
夫の支え
《これは大変なことになると全身が震える思いだった。(中略)私の人生を左右するほど激しく詰め寄っただけに、孝も私にこの本を書き上げさせる責任を感じたようだった。書き上げる最後の半年の間、彼はあらゆることにサポートを惜しまなかった。わたしの食事の管理もすべてやってくれた。その間、私が夕食をつくるということは一度もなかったのではないだろうか。(中略)電話にもすべて彼が出て、マスコミからかかる私への依頼については、「猪口邦子はいま忙しい」と言って片っ端から断っていった。私が電話を受けていたら断りにくかっただろうことを、彼は本当にためらわず、ある種殺気立って断っていく。》 その甲斐あって「戦争と平和」は女性として初めて吉野作造賞(2000年以降は読売・吉野作造賞)を受賞する。未だ女性の受賞者は彼女のみだ。 そして邦子氏は2005年、時の小泉純一郎首相から要請を受け、衆院選に立候補する。悩みに悩んだ上で彼女は出馬を決意し、孝氏に相談した。 《自分の気持ちを伝えると、孝は「邦子がそうしたいと望むなら、がんばりなさい」といってくれた。その人間が考え抜いて結論を出したことなら応援するという、いつも変わらぬ孝の愛情がそこにはあった。》 前出の篠田氏が猪口夫妻を振り返る。 「孝先生はすごく明るくてお喋りで社交的なんですけど、やっぱり学級肌なんですよ。喋る内容が学者で、アイドルの話なんて絶対にしませんでした。邦子先生は『うちに夫は~』なんて冗談めいて 言うこともありましたけど、孝先生は邦子先生のことを冗談の題材にすることもありませんでした。先生からしてみると、年齢の差以上に邦子先生に気を遣っていたというか、愛おしんでいましたね。やっぱり自分が支える、守る、引っ張るという感じ。もちろん『俺についてこい』みたいなことではなく、そう見えないようにサポートしていたように思います」 デイリー新潮編集部
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