「電話対応も、夕食の準備も、すべて孝がしてくれた」…「猪口邦子」議員が著書で語っていた亡き夫への“感謝の言葉”
いきなりプロポーズ
《猪口孝と出会ったのは、私が上智大学の院生のころ。留学が決まって、あと三カ月で日本を離れようかというときだ。軍縮研究のゼミの教授が「とてもお似合いだから、会ってみるといいと思うよ」と紹介してくださった。》 この少し前、孝氏はマサチューセッツ工科大学大学院で政治学の博士号を取得し、帰国して上智大学の助教授を務めていた。 《そして、まだまともにデートもしたことがないというのに、孝はある日一緒にお茶を飲もうと喫茶店に誘うと、「結婚してほしい」とプロポーズしてきた。直球だった。(中略)私もなぜか「はい」と即答して、結婚は決まりとなった。》 3カ月後にはエール大学への留学が決まっていたが、留学は先延ばしにし、結婚を優先しようと考えた。 《私がその気持ちを伝えると、彼は「学問の世界はそう甘くない。今回を逃したら、エール大学に留学する機会は二度と来ないだろう。いま行くか行かないか、その選択だけだ」と言う。(中略)すでに学者として人生の勝負をしてきた人の考えと迫力はすごかった。「それなら、留学して、帰ってきてから結婚しよう」と、二人で一応の結論に達した。》 ところが、デートを重ねるうちに孝氏の考えが変わる。
妻の支え
《結婚するのは早いほうがいい、結婚してから留学した方が精神的にも安定するのではないか、そう孝に説得され、私たちはそれから一カ月後には結婚することになった。》 留学までの短い新婚生活は、孝氏が暮らしていた杉並の1DKだった。留学から帰国してからは、孝氏が通う東大・本郷キャンパスの隣にある2LDKのマンションに引っ越した。学問漬けになるため、できるだけ大学のそばに住みたいという希望からだった。20年近く住んだというマンションはそれほど広くはなかったが、孝氏を学者として正当に評価してもらうため、邦子氏が考えたのが自宅での夕食会だった。 《当時、日本に来る研究者は少なかったが、滞日した学者を自宅に招くことで、学術的なサロンの場を提供していくという考えである。ときには編集者や日本の研究者仲間も来てくれた。(中略)日本では、このようなパーティを主催するという伝統がないから、研究者達は我が家に招かれたことが深く印象に残るようで、孝が欧米に行ったときには逆に自宅に招いてもらい親しく交流させていただくようなこともあった。実際、猪口孝という一人の学者を認識してもらう格好の機会になったと自負している。》 なんだか内助の功 で名高い山内一豊の妻のようだが、この夫婦、妻が一方的に夫を支えていたわけではなかった。