戦乱のガザで毎日180人の赤ちゃんが生まれている 何度も避難し、麻酔が不足する中で帝王切開に挑んだ記録
イスラエル軍が侵攻を続けるパレスチナ自治区ガザでは、死者が2万3千人を超える一方、毎日180人前後の新生児が誕生している。軍とイスラム組織ハマスとの戦闘が始まった昨年10月時点で約5万人の女性が妊娠していた。共同通信ガザ通信員ハッサン・エスドゥーディーのいとこ、シューク・ハラーラ(24)もその一人。ガザ北部ガザ市から3回の避難を余儀なくされ、南部ハンユニスの病院で昨年11月に双子を出産した。麻酔が十分手に入らず、激痛に耐えた帝王切開手術。エスドゥーディーが報告する。(敬称略。翻訳、構成は共同通信エルサレム支局長 平野雄吾) 歴史が生んだ「世紀の難問」…イスラエル、パレスチナの争いはなぜ始まった 基礎から解説
▽妊婦、徒歩で2時間避難 昨年12月中旬、ガザ南部ハンユニスのナセル病院にシュークを訪ねた。シュークの家族が身を寄せているほか、彼女自身が定期的に新生児の健診に来るためだ。シュークはやせ細り、顔に疲れがにじみ出ている。それでも、双子を見つめる目には、力強さを感じた。 丸い瞳を大きく開き、小さな手足をばたばたさせる。生まれたばかりの双子を見ると、日々ガザですり切れていく気持ちも穏やかになった。 「2人が生まれたとき、安堵感から涙が出てきた」。シュークは昨年11月3日の出産を振り返り、そう語った。妊娠8カ月で、1700グラムの女児と1300グラムの男児だった。 10月7日にイスラエル軍の空爆が始まると、シュークは夫マムドゥーフ(26)らと共にガザ北部ガザ市の自宅から市内のシファ病院に避難した。だが、シファ病院も軍の攻撃対象となり、1週間後に中部ヌセイラト難民キャンプの友人宅へ向かった。大きなおなかを抱えて2時間以上、空爆で建物や道路が破壊された街を歩く。避難する市民は多く、長蛇の行列だ。負傷者は手押し車や担架で運ばれる。イスラエル建国に伴い多数のパレスチナ人が避難を余儀なくされた1948年の「ナクバ(大災厄)」の再来だった。
友人宅に空きベッドはなく、床に毛布を敷いて横たわった。食料も十分にはなくなり、ツナ缶が主食で、野菜を食べることもなくなった。「赤ちゃんがおなかを蹴るたびに、まだ生きていると安心した」とシュークは言う。「けれど、もっと栄養をちょうだいと訴えているようにも感じた」。安心したのもつかの間、今度はヌセイラト難民キャンプにも空爆が始まり、3日後に再度避難、10月17日にハンユニスのナセル病院に到着した。 負傷者や避難者があふれる廊下、その廊下で麻酔なしに手術する外科医…。シュークらが目にしたのはガザの病院の現実だった。 ▽砲撃から赤ちゃんを守る 廊下の片隅に居場所を確保してから数日後、医師が告げた。「帝王切開をするが、麻酔薬が十分にない」。マムドゥーフは南部ラファまで必死に探しに行き、別の病院で購入した。それでも不十分で、シュークは激痛の手術に挑んだ。 戦火のガザに生まれた双子。男児は「天国にある家」の意味でラヤーン、女児は軍の攻撃で死亡した親友の名前からリターンと名付けた。北部ジャバリヤにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)運営の学校に避難中、殺害された親友。「彼女を思い出し、また涙があふれた」とシュークは振り返った。