はるかなり秘境駅⑧ 大嵐に「飯田線愛」を見た 帰ってきた令和阿房列車で行こう 第一列車
「飯田線秘境駅オリジナル弁当」をつまみに銘酒「八咫烏(やたがらす)」に酔いしれていると、車掌さんが、「ただいま城西駅を通過し、まもなく飯田線名物・S字鉄橋を渡ります。ゆっくり渡りますので、運転台前は、混み合いますが譲り合ってごらんください」と名調子でアナウンス。 【写真】東京駅を模した大嵐駅 乗客たちは、整然と前後の運転台へ移動を始めたが、サンケイ2号君が「ここでも十分見られますよ」と言うので、杯を傾け続けた。まぁ、歩いていくのが面倒だっただけではあるが。 S字鉄橋とは、天竜川の支川・水窪川(みさくぼがわ)にかかる「第6水窪川橋梁(きょうりょう)」のことで、川の左岸を走っていた電車は、鉄橋で右岸に渡ると思いきや急カーブをきって元の左岸に戻ってくるという世にも不思議な鉄橋だ。それもこれも崩落などのため左岸にトンネルが掘れなかったためで、いかに飯田線、なかんずく旧三信鉄道の建設が、難工事の連続だったかをしのばせる。 やっぱり前で見れば良かった、とは思ったが、譲り合う自信がなかったので、これで良しとしよう。 三信鉄道は、未通だった三河川合駅と天竜峡駅間67キロに線路を敷き、三河と信濃を結ぼうと計画された鉄道で、昭和2年に会社が設立された。 しかし、同区間は天竜川が蛇行し、急峻(きゅうしゅん)な断崖絶壁が続く難所中の難所で、測量を請け負う業者すらなかったという。 「困り果てた三信鉄道は北海道や樺太で、鉄道工事の実績があるアイヌ人測量技師、川村カ子(ね)トを招いて窮地を脱したそうです」と、2号君は滔々(とうとう)と解説する。前夜に「伝う鉄路と物語 飯田線」(信濃毎日新聞社)などを読んでにわか勉強したそうで、川村は、激流逆巻く天竜川沿いに道なき道を進み、岩から岩へ飛び移るなど文字通り命がけで測量をしたんだとか。 測量が終わると現場監督に抜擢(ばってき)されるが、当時はアイヌ人に対する偏見が強く、人足たちに生き埋めにされかかったというから凄(すさ)まじい。今からたった90年ほど前の話である。 会社設立から10年、川村らの努力の甲斐(かい)あって昭和12年、豊橋から辰野まで鉄路が一本につながった。