ドラ1入団も焦り「どうしたらいいんや」 いきなり浴びた洗礼…確約されなかった“居場所”
守備重視の指揮官の方針に合致…プロ2年目にリーグ優勝&MVP
中尾氏の実力と真摯な人柄のおかげなのか。同じく正妻を奪いにいく立場の先輩、金山仙吉(当時の登録名は卓嗣)捕手、球団OBで元捕手の新宅洋志氏らがブロックの極意やスローイング、バント処理などを教えてくれた。「金山さんは、僕をライバルとは思ってなかった。『お前には勝てねーわ』と感じていたみたいです」と感謝する。 中尾氏のルーキーイヤーに就任したのが近藤貞雄監督だった。「近藤さんはセンターラインをしっかりやらなければ、という考え方。木俣さんも悪くはないが、守りなら中尾が上だな、と思って頂けたのかな」。指揮官の方針にピタリとはまり、出場試合数で上回った。 2年目の1982年。5月23日の大洋戦(仙台)でレギュラー争いは大きく傾いた。この時点でリーグ打率4位につけ好調だった中尾氏は休養で欠場。木俣氏がマスクをかぶり、若者に負けじと1号本塁打を放つなどした。だが、9回2死から鈴木孝政投手が長崎慶一(当時の登録は啓二)外野手に“つり銭なし”の逆転サヨナラ満塁アーチを浴び、9-10で敗れた。 リードで責任を痛感した。「木俣さんはその時、『あー俺、もう中尾に譲るわ』という気持ちになったそうです」。中日はこの年リーグ優勝を果たし、119試合で打率.282(394打数111安打)、18本塁打47打点をマークした中尾氏はMVPに輝いた。 中尾氏は強調する。「プロの選手は1軍で活躍しないといけない。一度も1軍に上がらずに辞めていく選手はプロじゃないです。指名順位は関係ない。下位からでは1軍に行けないとかはない。育成でもソフトバンク捕手の甲斐拓也とかいます。だから自分が1軍でプレーできるために何をするか」。ドラフト指名された選手が、夢をかなえた喜びに浸るのはよくわかる。だが、同時に先輩たちを含めたサバイバルレースは、もう既に始まっている。
西村大輔 / Taisuke Nishimura