京都に引っ越してすぐ、近所の人に言われた「これだけは気をつけて」 街に点在する赤いバケツの謎
京都の街を歩いていると、路地や住宅の前に「赤いバケツ」が置かれているのが目にとまります。「消火用」と書かれていますが、はたして「この水で火事の火を消せるのか……」。不思議に思って取材すると、古都ならではの防火意識の高さが見えてきました。(朝日新聞記者・光墨祥吾) 【画像】赤バケツはこちら。舞妓さんたちが使っている風景も
バケツの設置、始まりは70年ほど前
昨年1月から1年ほど勤務していた京都。市内の町家や歴史的な建物を眺め、考えごとをしながら散歩をするのが日課でした。いつも視界に入り、気になっていたのが、ポツポツと置かれている赤いバケツ。「防火用」「消火用」などと白い字で書かれ、数リットルほどの水が入っています。頻繁に交換されているきれいな水もあれば、少し濁っているものもありました。 京都市消防局によると、この赤いバケツが使われ始めたのは、いまから70年近く前のこと。京都市内では1955年に火災が急増し、1年間で700件以上の火災が起きていたそうです。一部の地域で自主防火の取り組みとして、消火用のバケツが置かれるように。町内会単位で徐々に設置が進み、市内全域に広がっていったといいます。
町のおきて「消火に駆けつけなければ、罰金」
何度も大火に襲われた歴史があり、大事なのが初期消火だった――。 そんな風に指摘するのは、立命館大学文学部の山崎有恒教授(日本近代史)です。京都の街は木造の建物が密集し、道は入り組んでいます。どこかで火がつけば、たちまち燃え広がってしまう。消防車両が入れない細い道も少なくありません。そのために欠かせなかったのが、「初期消火」でした。 山崎教授によると、江戸時代の京都にはこんな町の〝おきて〟があったといいます。 「近隣で火事があったら、水をくみ、現場に駆けつけなければいけない。もし駆けつけなかったら、罰金」 「火事を起こしたら家財を売り払い、退去しなければならない」 1874年(明治7年)には、京都市下京区で多くの家が燃える大火がありました。その際は、32の町から次々に人々が水を持って、消火に駆けつけたという記録が残っているそうです。火災に弱い街だからこそ、消火への意識が高まり、それが、いまの赤いバケツにつながっていると山崎教授は分析します。