朝ドラ『らんまん』が心を摑んだ理由 名もなき草に光を当てた長田育恵の名脚本
NHK連続テレビ小説『らんまん』は、長田育恵の優れた脚本と神木隆之介という演技力の高い俳優が幸福な出会いを果たし、私たちの心を掴んで離さなかった。その最大の魅力は、なんと言っても万太郎の植物への愛と「名もなき草はない」「雑草という草はない」という思想がブレることなく描かれ、終始一貫したドラマだった点にある。 【写真】美しかった最終回の万太郎(神木隆之介)と寿恵子(浜辺美波)の抱擁 しかし忘れてはならないのは、初めからあらゆる草が名前を持っていたわけではなく、「新種」という名もなき草に名前を与えることで光を当てる物語でもあったということだ。そしてそれは単に命名するだけではなく、新種に自らの名を刻むという行為でもある。ゆえにそれは、発見者として自らの名を世界に知らしめたいという欲望や野心と密接に結びついてもいる。草花を愛でる心と自分の名を残したいという欲望は必ずしも同じではない。そのことが、たとえば万太郎と東京大学(のちの東京帝国大学)教授・田邊彰久(要潤)の関係をこじれさせ、このドラマに陰影を与えていたと言えるだろう。万太郎自身も自らの欲望に正直な人間として描かれ、その欲望は時に「傲慢」と評されることもあり、周囲に迷惑をかけもするのである。 にもかかわらず万太郎がみんなに愛されるのは、彼の草花への揺るぎない愛に嘘がないからだろう。『らんまん』は万太郎が周囲にその愛を伝え、周囲から愛されることで、自己の欲望を乗り越えて「雑草という草はない」という自由と平等の思想を体現する物語だったのではないだろうか。万太郎にとって、それは名もなき雑草である自分自身に植物学者という名を与えるプロセスであり、その意味で『らんまん』は万太郎がアイデンティティを獲得する物語でもあったと言える。ここでは名前という視点から、この傑作ドラマで万太郎がどのように変化したのかを振り返ってみたい。
名前は峰屋の「若」
土佐随一の造り酒屋「峰屋」に生まれ、幼いころから何不自由なく育ってきた槙野万太郎(森優理斗・小林優仁・神木隆之介)は「持てる者」だった。体が弱いがゆえに、初回で分家の豊治(菅原大吉)が「いっそ生まれてこんほうがよかった」と陰で悪態をつくのを聞いてしまうが、横倉山の森で「天狗」こと坂本龍馬(ディーン・フジオカ)に「生まれてこんほうがよかった人ら一人もおらんぜよ。いらん命ら一つもない。この世に同じ命ら一つもない。みんな自分の務めを持って生まれてくるがじゃけん」、「己の心と命を燃やして、何か一つことを成すために生まれてくるがじゃ」と言われたことが、万太郎の出発点となる。 万太郎は峰屋の力で、本来武士の子弟しか勉学を許されない明教館(めいこうかん)に入ることを許され、英語をはじめ学問の基礎を身につけていく。しかし万太郎に「心が震える先に金色の道がある。その道を歩いて行ったらえい」と語ってくれた塾長の池田蘭光(寺脇康文)が去り、誰でも学べる小学校に改編されると、授業が退屈な万太郎は退学してしまう。自分を叱る教師を英語でやりこめる万太郎は、いわば傲慢なこどもである。勉強好きの万太郎が小学校をあっさり退学できたのは、峰屋の財力のおかげでいくらでも高価な本を手に入れて独学できる環境があったからにほかならない。峰屋は祖母のタキ(松坂慶子)を中心に分家や使用人に対して圧倒的な権力を行使する封建的な「本家」であり、万太郎はその当主としてヒエラルキーの頂点に位置する存在であるため、思うがままに植物の勉強をすることができたのである。 初めての上京を経て峰屋の当主であることと植物学の道を究めることは両立しないのだというシンプルな事実に気づいた万太郎は、一度は植物学の道を断念するが、ある出会いが転機となる。