朝ドラ『らんまん』が心を摑んだ理由 名もなき草に光を当てた長田育恵の名脚本
傲慢な名もなき草
第4週「ササユリ」(第18話)で、万太郎は姉の綾(佐久間由衣)を探しに来た高知で、自由民権運動の結社「声明社」のリーダーである早川逸馬(宮野真守)に出会う。「われら人民はこれ以上役立たずの雑草と馬鹿にされ、いやしき民草と踏みにじられてはいかん」と気炎を揚げる逸馬に対して、思わず「それは違う」と口にした万太郎に、逸馬が「おまん、誰じゃ?」と問うシーンは重要だ。なぜなら「おまん、誰じゃ?」は万太郎が初回と最終回で口にすることから、本作の通奏低音であると考えられるからだ。新種の植物が名前を持たないように、峰屋の力の及ばないところでは、万太郎もまた、何者でもないことが印象づけられる。この出会いを契機として、万太郎は自分が何者かを模索していくことになる。 逸馬に促されて壇上に上がった万太郎は、図らずも演説をぶってしまう。 「名もなき草らはこの世にないき。人がその名を知らんだけじゃ。名を知らんだけじゃなく、毒があるか薬があるか、その草の力を知らん」 「どんな草やち同じ草は一つもない。一人一人みんな違う。生きる力を持っちゅう。葉の形、花の色、そしてどこに生きるか。天がお決めになったがか知らんけどまっことようできちゅう」 この演説は、逸馬の「おまん、誰じゃ?」を受けて、まだ何者でもない万太郎が自らの考えを初めて明確に言語化しただけでなく、自分自身を草に重ねた台詞だったのではないだろうか。万太郎は、草花に対して民主主義的とも言える平等の思想を持っていることがここで明らかになり、だからこそ、自由民権運動を推進する逸馬に共鳴するのである。と同時に、自分が何者かという問いに向き合うことになる。「人がその名を知らんだけじゃ」は、まさに上京してからの万太郎に当てはまることになる。この演説のあと万太郎は逸馬の紹介で中濱(ジョン)万次郎と出会い、「自由」についても考える。そして万次郎から手渡されたシーボルトの『FLOLA JAPONICA』 を見て、宣言する。 「明らかに無理です。外国の人が日本の植物を明らかにするがは。植物が好きで緑豊かな地に暮らし、植物の絵がよう描ける。その上英語で読み書きができ、日本の植物を世界に知らせることもできる。そういう人間が、今、ここに居合わせちゅう。今、やらんといかんがです」 万太郎がついに植物学の道を志す決定的なシーンだが、それを聞いた逸馬の台詞もまた重要だ。逸馬は万太郎に向かって言う。 「なんだ、傲慢なんてもんじゃない。とんだ強欲。ごうつくばりじゃ」 これ以前にも万太郎は逸馬から「のんきというだけで傲慢」だと言われている。何不自由なく育ち、植物学の知識を身につけてきた万太郎は無自覚的に傲慢であり、万能感に満ちていたと言えるだろう。本来自由と平等の思想を持っているはずの万太郎は、ここではまだ自らを特権的な位置に置いている。以後、万太郎は、幼少期から培われた傲慢とも言える自信と、峰屋の後ろ盾がなければ小学校中退で何者でもないという現実とのギャップを生きることになる。