諸葛孔明の「非情な宣告」に散った? 劉備の後継者とされた劉封の悲劇
いつの世も、後継者争いは組織の死活問題。判断を誤れば大惨事につながる。劉備の養子、劉封(りゅうほう/?~220)は、まさにその火種となってしまった人物だ。 劉封の登場は劉備が曹操の手から逃れ、荊州(けいしゅう)へ入った西暦200年すぎ。当時40を過ぎていながら跡取りのなかった劉備は、長沙郡で知り合った同姓の劉氏の一族から養子をもらい受けた。それが劉封である。もともと羅侯県(湖南省)の寇(こう)という名家の出で、地元では相応の名声を持っていたことになろう。 ところが、それから数年ほどして彼の将来に暗雲が立ち込める。207年に劉備の側室・甘氏が念願の男子、劉禅を産んだのだ。必然あるいは不幸というべきか。わが国、日本で豊臣秀吉が秀次(ひでつぐ)を養子に迎えた直後、秀頼(ひでより)を授かったのと同じような構図である。 だが、劉封は懸命に働いた。214年の益州攻めでは諸葛亮や張飛に従い、劉備軍の入蜀にも貢献。小説(三国志演義)では曹操の息子・曹彰(そうそう)との一騎討ちに挑んで敗退する一幕も描かれるが、関羽の子・関平ともども将として過不足ない働きぶりを見せている。 ■孟達と組み、交戦中の関羽を見捨てて魏に誘われるが 運命の西暦219年。劉封は上庸(じょうよう)の攻撃を命じられる。先に派遣されていた孟達(もうたつ)の援軍として赴いたのである。合流した劉封と孟達は協力して上庸(じょうよう)を攻略したが、孟達は内心不服だったようだ。軍の指揮権が、劉封に移ったからである。 両者は意見を違えることも多かったようで、劉封が孟達の軍楽隊を没収するなど関係は悪化していく。これは劉備の采配ミスともいえたかもしれない。 その年、劉封と孟達のもとに使者が訪れる。江陵(こうりょう)から北上し、襄陽(じょうよう)・樊城(はんじょう)を攻めていた関羽からの援軍要請だ。荊州から曹操軍の勢力を駆逐できる千載一遇の機。重要な決断となるが、これに孟達と劉封は応じなかった。新たな土地を取ったばかりで兵を割く余裕がなかったという。 やがて関羽は敗死した。劉封や孟達が援軍を出しても勝てたかどうか。定かではないが、ともかくも彼は関羽を見殺しにしたとみなされ、劉備の怒りを買うこととなる。よって「相棒」の孟達は、いち早く部下を引き連れて魏へ投降。劉封が判断を決めかねていたところ、魏へ走った孟達から手紙がきた。 「魏へ降りなさい。どうせあなたは劉備の実の子ではないのだから」 一読した劉封だが、孟達の誘いには乗らなかった。彼なりのプライドだったのか。しかし、前線で孤立したことで戦況は不利。裏切り者も出て、劉封は上庸を失って成都へ敗走した。 成都に着いた劉封は、上庸の失陥、関羽を見殺しにした罪を問われる形となった。処罰を決めかねた劉備は軍師・諸葛亮に相談する。 「この際、彼を除くべきです」と、諸葛亮は冷やかにいったようだ。次代(劉禅の代)に災いとなることを憂えたのである。これを聞いた劉備は劉封に自害を命じた。ときに西暦220年。死のまぎわ、劉封が「あの時、孟達に従うべきだった・・・」とこぼしたと聞き、劉備は涙したという。 ■『三国志平話』では、より酷い扱いを受ける 「演義」のタネ本のひとつ、小説『三国志平話』では、すこし展開に違いがある。劉備が漢中王に即位したとき、諸葛亮に「劉封と劉禅、どちらを西川(蜀)の主にしたものか」と尋ねる。ところが、なぜか諸葛亮は仮病をつかって出仕せず「関公(関羽)におたずねください」と責任を押し付けてしまう。 荊州にいた関羽は「劉封殿は羅侯家からのご養子で、劉禅さまはご嫡子」と書状で返した。そこで劉備は劉禅を跡継ぎと定めて四川王にするのである。そのときまで、劉封は自分が後継者になれると思っていたらしいが、関羽が劉禅を推薦したことを知って恨みを抱く。その後、彼は関羽が成都へ発した援軍要請を三度も握りつぶし、関羽敗死の元凶とされ、諸葛亮に処刑されるという末路を迎える。 このあたり、正史でも物語においても、珍しく諸葛亮のダーティさが浮き彫りとなっている。 三国志の時代だけでも、袁紹の死後に起きた三兄弟の争い、劉表の遺児同士による兄弟の争いなど、後継者争いが勢力の滅亡を招いた例がいくつもある。劉封は、はからずもその火種のひとつとなり、消えていった哀れな存在だった。
上永哲矢