遠藤航、三苫、冨安ら海外移籍は、磐田・藤田俊哉のおかげ!? Jリーグ移籍金制度撤廃への道
――当時は親善試合での勝利給が20万ほどでしたが、Jクラブでも60万円という話もあり、欧州クラブでは100万円を超えてもおかしくない時代でした。代表人気が高まるなかで、選手に対しての分配が少なすぎると。 「弁護士を介して、申し入れをした途端、当時の小倉純二会長が厳しいコメントをメディアに発しました。『一蹴』という見出しが新聞に掲載されましたね。僕らは代表戦をボイコットするというつもりはなかったけれど、覚悟を示すためにもその可能性は排除しなかった。結果、『お話にならない』というような態度をとられてしまった。実際、選手会長とは会えないと、会ってもらえませんでしたから」 ――小倉さん世代が現役時代、彼らはみな、大手企業の社員選手でしたよね。代表は名誉ある活動だから、手弁当で当然という思考だったのかもしれませんが、プロ選手は、みな個人事業主。代表活動中に怪我をしたり、所属チームでポジションを失う可能性もある。肖像権もそうですが、ここでもまた選手の権利を訴えたわけですね。まさに労使交渉ですね。 「僕らも労使関係のプロフェッショナルの力を借りました。ある話し合いの場で、『労働組合でもない団体がそういうことを言う権利はないんだ。君たちはそういうこともわかってない』と言った人がいたんです。『わかっていないんじゃなくて、そういう団体がなくても、きちんと話ができると思っていたのに、できないのであれば、団体を作らなくちゃいけないですね』と応えたら、『そうだ』ということだったので、2011年に労働組合日本プロサッカー選手会を設立しました。作ったら作ったでまた非難されましたけど(笑)」
日本と比べて、ヨーロッパの進化のスピードはさらに速い
――移籍金撤廃を始め、藤田さんが会長として改革されたことは、今考えると日本サッカーにおいて、非常に重い扉を開いた歴史的な行動だったと感じます。 「もし、僕がやらなかったとしても、きっと誰かがやったと思います」 ――それでも、当時はかなりバッシングもあったのではないですか? 「実際、どういうふうに言われていたかはわからないけれど、風当たりは強かったです。当時はまだSNSもそれほど拡がっていなかったけれど、もし、今のような状況なら、僕もへこんでいたかもしれませんね(笑)。今、思えば、よくその壁を乗り越えたなと思います。我々は純粋だったし、確固たる信念があり、妥協しなかった。だから余計に反感を買ったのかもしれないけど。それでも、やった価値はあった。交渉過程でのいろんな障壁も『そういう時代だった』ということで、今なら笑い話ですから」 ――サッカー界に限らず、選手が自身の権利を主張したり、声を挙げるというのは、日本スポーツ界では、まだまだ異質という時代でした。 「そもそも、日本のスポーツの歴史は、選手側から発信するということがなかったと思うんです。古き良き時代はそれでうまくいっていた部分もあるけれど、プロ化を始め、国際的な舞台で活躍する選手が増えたし、コンプライアンスやハラスメントなどへの意識の高まりも含めて、社会も変わってきている。そういう歴史の中で、僕らの行動もひとつの転換期になったと思います。そうやって今があるから、日本サッカー界も成長している」 ――そこから10年が経ち、若い選手がヨーロッパへ渡り成長しています。日本サッカー協会会長には宮本恒靖さんが就任し、Jリーグチェアマンにも野々村芳和さんと、藤田さんの後輩たちが就き、組織内にもさまざまな変化が生まれているのではないですか? 「ものすごく成長したと思うし、もっと成長できると思っています。そうやって変わっていくという感覚は忘れないでいたい。今成長したからよかったね、と終わるんじゃなくて。僕が引退してから、ヨーロッパで見た景色を考えても、彼らの進化のスピードはさらに速い。日本が進む以上のスピードで、進み続けているから。そう考えると、日本のスピード感が遅いと感じる部分もあります。差が縮まっているのかと問えば、縮まっているとは言い切れない微妙な問題だと思います。日本は成長の速度を上げていかないといけない」 ※3回目に続く 藤田俊哉/Toshiya Fujita 1971年10月4日静岡県生まれ。1995年ジュビロ磐田でプロデビュー。3度のJリーグ制覇、アジアクラブ選手権優勝を牽引した。2003年にはオランダリーグ・ユトレヒトへ移籍。2011年ジェフ千葉で現役引退。その後、オランダのVVVフェンロでコーチ、英プレミアリーグ・リーズ・ユナイテッドAFCの強化部、日本サッカー協会欧州駐在強化部員を務め、2022年、ジュビロ磐田スポーツダイレクターに就任。2023年J2リーグ2位でJ1昇格を果たす。
TEXT=寺野典子