「俺の死に場所はここだ」――覚悟を決めた真珠湾攻撃 103歳の元搭乗員の証言
1943年頃までにやめておくべきだった
1944年12月、吉岡さんは内地に戻ると、茨城にある百里原海軍航空隊に配属された。飛行学生を講習する立場だったが、実際には何もしようがなかった。教えるにも航空機がなく、仮にあっても燃料がなかった。 ある日は短剣を寄付しろという通達があった。何に使うのかと聞けば、本土防衛のための槍を作るという話だった。言葉を失ったという。 「槍って……。そんなの負けるに決まっています。正直言えば、途中からずっと思っていました。なんで戦争をするんだろうと。どうして国はやめてくれないのだろうと。私たち下っ端だってこのアメリカとの戦争には勝てないのがわかる。なのに、軍は続けようとしている。これは日本国民が一人もいなくなるまでやるんだ、日本という国を潰すつもりなんだと思いましたね」 終戦の玉音放送は、第一分隊員を集めて聞いた。みんなの前で、日本は戦争に負けた、と一言話した。その途端、涙がこみ上げて話ができなくなった。そんな記憶が残っている。
戦後は大和運輸(現ヤマト運輸)でしばらく働いたのち、海上自衛隊、そして複写機メーカーなどに勤めた。 その後の日々で、太平洋戦争や真珠湾攻撃を振り返ることはたびたびあった。奇襲攻撃という手法は別として、吉岡さんは兵士として歴史に残るあの戦争に参加したことそのものには誇りをもっている。一方で、あのような焦土となるまで戦争を続けたことは間違いだったと考えている。 「少なくとも1943年ごろまでに、手を上げて降参しておくべきだったと思います。そうすればあれほどの死者を出さず、優秀な軍隊も残してやめられたのではないか。この年まで生きてみて、そう思います。難しかったのかもしれませんが、負け方を考えていなかったのかもしれませんね」 語り始めてみれば5時間が経っていた。ときに力が入り、ときに目に涙も浮かんだ。こんなに話したのは初めてですとまた照れたように言うと、ちょっともう疲れたので今日は早く休みますよと吉岡さんは笑顔を見せた。
※注)「10年訓練を重ねたのは1日で死んで成果を上げるため」という趣旨。 ------ 森健(もり・けん) ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。