MLBの挑戦者たち~メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡 Vol.19 高津臣吾/魔球を操る名クローザー
ヤクルト・スワローズ(当時)のクローザーに君臨し、NPB歴代2位の286セーブ、日米通算で歴代3位の313セーブを挙げた高津臣吾。NPB、MLB、KBO(韓国)、CPBL(台湾)と4つのリーグでプレーしており、引退後はその経験を生かし、ヤクルトの投手コーチ、二軍監督を経て、’20年から一軍監督を務めている。’21年には前年最下位から日本一となる快挙を達成。’22年もリーグ優勝を成し遂げている。 高津の投球スタイルといえば、サイドハンドから繰り出すキレのある直球と、同じ腕の振りから繰り出す球速100キロの魔球シンカー。この球が彼の才能を開花させることになったのだが、もともとは故・野村克也監督のアイデアだったという。入団3年目の’93年からクローザーに定着した高津は、伝家の宝刀を武器に通算4度の最優秀救援投手のタイトルを獲得。’03年には、当時佐々木主浩のもつ通算セーブ記録を更新した。その年のオフ、高津はFA権を行使し、35歳にしてメジャーのマウンドに挑むことになる。 シカゴ・ホワイトソックスと1年契約を結び、迎えた’04年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦。メジャー初登板となった高津の前に、いきなり松井秀喜が立ち塞がる。結果は右翼線への二塁打となり、MLBで2年目を迎えるゴジラに軍配が上がった。 5月1日に初勝利、6月12日に初セーブ。24試合連続無失点を記録するなど活躍し、チームのクローザーに定着。地元メディアから“ミスター・ゼロ”のニックネームも贈られた。シーズンの最終成績は19セーブ、防御率2.31。WHIP(1投球回あたり何人の走者を出したかを表す)の0.98という数値は、救援投手中リーグ3位だった。上々のデビューイヤーとなり、球団も高津との契約オプションを更新した。 期待のかかる’05年シーズン。開幕からクローザーを任された高津だったが、1イニングに3本塁打を浴びるなど精彩を欠く投球が続いた。5月までに14回1/3を投げ、7本の被本塁打。その後も思うような投球ができないまま、8月1日にFAとなった。同12日にはニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャー昇格。7回2/3を投げて1勝1ホールドを挙げるも、オフにFAとなって退団を余儀なくされた。なお、メッツがワールドシリーズを制したため、高津もチャンピオンリングを手にしている。 翌’06年は入団テストを経てヤクルトに復帰。クローザーも任されたが、’07年オフに突如として戦力外通告を受ける。ファンへの挨拶もなしに功労者が去ることになり、チームのファンから批判が殺到。球団はホームページに謝罪文を掲載する事態になった。 現役続行を望む高津は、’08年1月にMLBのシカゴ・カブスとマイナー契約を締結。だがオープン戦で結果を残すことができず、シーズンを前にして戦力外通告に。その後は韓国リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツ(マイナー)、台湾リーグ、日本の独立リーグを転々とし、’12年に現役引退を表明。44歳だった。新潟県長岡市で開催された引退試合では、試合後にヤクルト時代のバッテリーである古田敦也がマスクを被り、高津の“最後の一球”を受ける”終球式“も行われた。
文=野中邦彦 text : Kunihiko Nonaka