大澤 聡「リアルであれとメディアはいう――流行のSNS「BeReal.」の秘密にせまる」
リアリズムの時代
突拍子もなく聞こえるかもしれませんが、現在のこうした社会全体の趨勢は、わたしに1世紀ちかく前の文学の世界を連想させます。 1920年代後半から30年代前半にかけて、日本の文壇ではプロレタリア文学が全盛をほこっていました。労働者や弱者の窮状を描く小説ですね。そのベースには科学主義的な、もっというと公式主義的なマルクス主義がどんとひかえている。革命へのロマンをべつにするなら、これもリアリズム。 けれど、33年に思想弾圧のギアが数段あがったことによって一気に霧散、それと入れかわるように、30年代中盤には随筆やルポや実話ものが流行します。 たとえば、32年8月、プロレタリア文学が失墜しようというまさにその前夜、哲学者の三木清は論説「自照の文学」のなかで(『詩と詩論』の後継誌『文学』の第15号)、随筆が何度目かのブームになりつつある状況をこう分析しました。 一般的に思われているのとはちがって、随筆の書き手たちは「美的な、詩的な、もしくは感動的な対象」や、「想像的なもの、空想的なこと」をじつはあまり取りあげない。そうではなく、「現実の事実」や「平凡な、日常茶飯の事、いわばそれ自身散文的な事」をあつかう。「詩的精神」より「散文的精神」、つまりリアリズムの精神がそこにあると三木はいいたいのでしょう。「科学的精神」といいかえてもいる。ルポだとか、一般読者の体験談の投稿(SNS!)を中心とした実話ものだとかが、リアリズムなのはいうまでもありません。 プロ文から随筆やルポ、実話へ。この流れはリアリズムの系譜において一貫している。こうした歴史の話はあとでもどってくることにして、本題に入りましょう。
「リアルであれ!」
「BeReal.」は1日に1回ランダムな時間にスマホへいっせいに届く通知から2分以内に、その場で撮影した写真を仲間内で共有しあうというSNSです。10代の若者のあいだで流行しています。 自分でも投稿しないと友だちの投稿は見られない仕様になっていて、2分をオーバーしても投稿は可能ですが、その場合は、どれだけ遅れたかが明記されてしまう。反対に時間にまにあえば、あと2回好きなタイミングで投稿できるボーナスがつく。時間を守るインセンティブが働くわけですね。1日1回という稀少性のために、ほかのSNSにはない価値を投稿行為がまとっているし、なんとかミッションをクリアしようというゲーム性もそなわる。 あらかじめ保存しておいた写真は投稿できません。編集や加工もできない。撮りなおしは可能だけれど、制限時間を守るには写り映えにこだわっている余裕はない。なにせ2分間なのです。基本的には、通知が来た瞬間の、偶然の「いま」、ありのままの「いま」をシェアすることになる。 しかも、スマホの内側と外側のカメラがほぼ同時に作動するため、周囲の光景だけではなく、それを写す自分の顔も自動的におさまる二窓式。きらきらした場所やかわいい食べものだけを写すわけにもいかない。 なんとも不自由なSNSです。だけれど、その不自由さゆえに流行っている。 「ビー・リアル」──リアルであれ! 1日に1回、ぴろろろりんというアプリの通知音がそう迫ります。エビデンス主義と当事者至上主義とで構成されたあのリアリズムと、むかう先を共有しているように見えないでしょうか(ついでに加えると、すっぴんからはじまるメイク動画や、有名人の整形告白などもおなじ時代の感性にささえられている)。 「リアルであれ!」、この合言葉は、論理的には「リアルではない」ことを前提にしていなければ成り立ちません。わざわざ「リアルであれ」と命じるわけですから。すくなくとも、「油断するとたちまちリアルではなくなってしまう」という懸念が織り込まれている。まさにそれはInstagramをはじめとする従来のSNSが、過剰な自己演出だとか編集や加工だとかによる「映え」を最優先した、およそ「リアル」らしからぬ投稿で埋めつくされている事態への、あからさまな反動として、意図的に発せられた言葉にちがいありません。 こんなものはフィクションにすぎない。そう誰もがわかっていながら、だからどうした、ここはそういう場所じゃないかと、ひらきなおらんばかりに、編集や加工が大手をふって日常を詐称する。べつのレイヤーにべつの日常を作る。 ある人たちは、そんなきらきら競争に消耗し、リアクションの無言の強要に心折れ、立ち去っていきました。そこで、きらきらの対極にある、ほんとうの日常の「リアル」に新しい価値を見出すSNSが開発された。BeReal.について「映えないSNS」という紹介がされるのは、こうした経緯のためです。 ところで、ノンフィクションという文章や映像のジャンルがあります。「これはフィクションではない」とジャンル名が宣言する。けれども、ノンフィクションにフィクション成分は皆無でしょうか。もちろんそんなはずはない。むしろ、ことさらに「フィクションではない」と受け手を誘導しなければならないくらいに、じつのところフィクション成分がふんだんに混ざっている。 そもそもフィクション性、いいかえれば「作り話」っぽさや作為をともなわない表現など存在しません。どんな文章も映像も作られるのですから。いくら事実にもとづいているにせよ、現実世界の大小あらゆる出来事のなかから作り手の思惑やセンスで取捨選択しないことには、作品という単位におさまりようがない。アングルがいる。伝達すべき筋をちゃんと追ってもらえるよう「編集」的な操作は不可欠だし、情動に訴える「加工」も入る。そんな編集や加工を「ノン」のなかに封じ込めるのですね。 なにより、ひとの理解や認知の枠内におさまるための「物語」を帯びずにはいられない。そうした表象の暴力性を、1990年代の現代思想は精緻にえぐり出したはずです。代弁など不可能である、と。 そう、リアリズムの時代に「リアルであれ!」とせっつかれて撮影した風景や自分の姿は、ほんとうにリアルなのか。かぎられた紙幅で考えてみたいのはそこなのです。