【防災モデルダムが引き起こした災害】 死者114人の悲劇を伝える「平和池災害モニュメント」―惨事を後世に引き継ぐことこそ使命
阿部 治樹
豪雨が追い討ちをかけた能登地方の悲運に言葉を失う。地震と水害から逃れようのない日本では「明日は我が身」と気を引き締めつつ、今回は国内に15万カ所ある「ため池」に目を向ける。私たちの防災意識の中で死角になっていないか、との思いからだ。京都府亀岡市にある「平和池災害モニュメント」は、ため池決壊の惨事を今に伝え、身近に潜むリスクを忘れぬよう訴えている。
防水モデルダムが2年で決壊
奇岩、怪石が連なる渓谷を下る「保津川下り」の乗り場に近いJR亀岡駅から南に直線距離で約4キロメートル、住宅団地を登り切った先の道端に「平和池災害モニュメント」がある。2011年9月に市によって建てられた。当時の市長はモニュメントに「平和池水害は、亀岡市にとって決して忘れてはならない災害であり、その惨禍と教訓を後世に引き継ぐことこそ、『いま』を生きる私たちに課せられた大切な使命である」と記した。 モニュメントには、保津川の支流の一つ、年谷川上流に建設された「平和池ダム」が1951年7月11日の集中豪雨で決壊し、114人が亡くなり238人が重軽傷を負ったとある。流出・全半壊家屋は268戸、床上浸水が152戸、床下浸水は497戸に上った。特に被害が大きかったのは旧篠村の柏原(かせばら)地区で死者は75人。旧亀岡町でも死者が21人に達した。「ため池」がここまで大きな水害を起こすとは驚きだった。 決壊した平和池ダムは年谷川の支流の寒谷川を土の堤防でせき止めた「アースダム」。旧農林省が全国5カ所に計画した防災・灌漑(かんがい)のモデルダムの一つで、亀岡町が誘致した。堤防の高さが19.6メートル、長さが82.5メートル、貯水量は22万トンの規模だった。 完成したのは1949年11月。それから、2年もたたないうちに決壊してしまった。地元の「平和池水害伝承の会」創設メンバーで元京都新聞記者の中尾祐蔵さん(81)が当時の気象状況を調べた。決壊前日の7月10日の日中は晴れの夏日だったが、低気圧と梅雨前線が朝鮮半島南部から西日本に接近し、11日未明にかけて亀岡町周辺を通過、激しい雷雨が同地域を襲った。当時の京都測候所などの記録によると、1時間当たり66ミリメートルもの雨が降った。地元の安詳(あんじょう)小学校2年生だった中尾さんも、「恐怖を感じるほどの土砂降りとカミナリだった」と話す。