【防災モデルダムが引き起こした災害】 死者114人の悲劇を伝える「平和池災害モニュメント」―惨事を後世に引き継ぐことこそ使命
下流の柏原が壊滅も決壊の原因は不明のまま
モニュメントによると、11日朝9時半ごろに年谷川の右岸堤防が決壊、柏原の集落に水が流れ込み始めた。その10分後、貯水能力を超えたダムの堤防が決壊し濁流が年谷川に沿って一気に下った。50メートルプール約90杯分に相当する鉄砲水が黒い塊となって4キロ下流の柏原集落を瞬時に飲み込んだ。決壊から20分後の出来事だった。 平和池ダムの決壊は全国に衝撃を与えた。何しろ政府のモデル事業。水害翌日には農林省の調査班が現地入りし、2週間後には国会建設委員会も調査に入った。国会で原因が議論されたが、結論は出なかった。被災住民有志による損害賠償請求裁判も原因が明らかにならないまま和解。想定外の大雨なのか、設計上のミスなのか、いまだにうやむやのままだ。 ただ、「伝承の会」の活動で様々な記録を調べた中尾さんは、「世界のダム主な事故」(日本ダム協会、1966年)に、平和池ダム決壊が「管理不十分」の事故として掲載されていたことを知った。「当時のダム設計基準の不備や土木技術水準を考えると原因を管理の問題とするのが妥当なのか気になるが、深刻なダム事故とされた意味は大きい。平和池ダム決壊が突き付けた安全への問いは、災害列島の現在にも生きている」と話す。
「語られない水害」だった平和池決壊
実は、平和池水害は「語られない災害」だった。柏原地区と旧亀岡町側上矢田町の年谷川端にそれぞれの地区の犠牲者を追悼する慰霊塔と水難記念碑はあったが、市が水害全体を記述するモニュメントを設置するまで60年を要した。 影を落としていたのがダム誘致をめぐる地域の対立だった。農業用水の安定供給を求めた旧亀岡町に対し、洪水に悩まされていた下流域の旧篠村柏原は署名運動までして強く反対した。それを押し切ってダムを誘致した亀岡町に対する柏原の住民感情が最悪だったことは想像に難くない。亀岡町は周辺の15村と1955年に合併して市となったが、柏原のある篠村は1959年まで市に入らなかった。 こうした経緯もあり、亀岡市で水害が語られることはなくなっていた。水害から半世紀の2001年、中尾さんは「このままでは平和池水害で命を落とした人ちも、水害そのものも忘れ去られてしまう」と強い危機感を抱いた。翌年、地元の有志らと「伝承の会」の前身となる「柏原区平和池水害資料収集・編纂特別委員会」を設立。聞き取り調査などに取りかかった。水害経験者は高齢者が多く、時間との勝負だったという。コツコツと集めた資料は2009年に『平和池災害を語り継ぐ 柏原75人の鎮魂歌』として自費出版した。同書は全国新聞社出版協議会の「第3回ふるさと自費出版大賞」を受賞した。 その後、活動は小中学生への防災授業や行政、自治会での防災講演、防災展へと広がり、市全体としてのモニュメント設置にもつながった。地元の詳徳(しょうとく)小学校4年生は「伝承の会」の防災授業を聞いて水害の紙芝居を手づくりし、学校で水害伝承を続けている。