大田泰示という男 中学時代の「20年後の自分へ」を有言実行して悔いなく引退…担当記者が見た
巨人、日本ハムを経て今季までDeNAでプレーした大田泰示外野手(34)が18日、横浜市内のDeNA球団事務所で引退会見を行った。今季はプロ16年目で初の1軍出場なし。体調面は問題なく現役続行を模索してきたが、NPBからのオファーがなく決断した。 「相模にすごい打者がいるから見に行ってくれ」。入社1年目の08年6月、当時のデスクから指令を受けた。東海大相模3年の主砲・大田泰示の練習試合だった。東海大相模グラウンドで宮崎商との一戦。後にヤクルトから1位指名を受ける左腕・赤川克紀から場外ホームラン。度肝を抜かれた。 当時、印象に残ったのは強烈な打球だけではない。ベンチの最前列で誰よりも大きな声を出してチームメートを鼓舞していた。「主将としてみんなを引っ張っていかないといけない。自分のことはどうでもいいんです」。プレー以外の部分でも誰よりも目立っていた。 味方の9番打者が会心の本塁打を打ったが、喜ぶ様子がない。その選手をベンチで出迎える際に耳打ち。進塁打が求められる場面だったため「お前の役割は違うだろ」と指摘していた。ドラフト候補に挙がっても慢心やおごりがない。責任感の強さ、リーダーシップが一目で分かった。 そのまま大田泰示担当を拝命し、高校最後の夏も密着した。08年夏に神奈川大会新記録となる5本塁打。高校通算65本塁打までのばしたが、北神奈川大会決勝で慶応に延長13回の激闘で敗れた。遊撃手から投手としてリリーフ登板したが、痛打され、あと一歩で甲子園に届かず涙した。同年のドラフト1位で巨人入団。私も大田のプロ1年目の09年から巨人担当になった。 レジェンドの松井秀喜さん以来、空きだった背番号「55」を継承。注目度の高さは異次元だった。その中で思うように結果を残せず苦悩。西武・浅村ら同学年の選手が1軍で躍動する姿を見て焦っていた。計り知れない重圧と戦い、プロ初本塁打まで4年かかった。 当時は「どうすればいいんだろう」、「僕は違う背番号の方が良かったんですかね」などと葛藤。真面目な性格ゆえにプレッシャーを全身で受け止め、もがいた。高橋由、小笠原、ラミレス、谷、阿部、亀井、長野、坂本ら超強力野手陣に食い込もうと何度も打撃フォームを変えた。守備面では三塁手から外野にも挑戦して試行錯誤を重ねた。 現役引退を決断した今、当時を振り返り、「期待に応えようとしすぎていたかなと。周りのことを気にせずやれれば良かったのかもしれないですが、自分の中ではその瞬間、瞬間を全力でやってきたつもり。悔いはない」と言う。つらい経験も糧にして成長した。 巨人で8年間、日本ハムで5年間、DeNAで3年間。巨人では09年から13年まで5年間、背番号「55」を背負い、14年からの3年間は「44」をつけた。プロ入り前は故障したことがなく、体の強さが武器だったが、巨人では大事な時期に故障もした。苦しいことが多かったが、トレード移籍した日本ハムでレギュラーとして開花。最後は高校時代に慣れ親しんだハマスタで熱いプレーを披露した。 3兄弟の末っ子。小さい頃は広島・三次高で投手だった父・幹裕さんに野球の基礎を教わって育った。名前の「示」には「人に模範を示してほしい」との両親の願いが込められている。その通り野球だけでなく勉強にも前向きに取り組んで成績優秀。明るい性格でいつも周りには仲間がいた。 広島・福山の城南中2年生だった04年12月、地元で行われた野球教室で原辰徳さんから指導を受けた。原さんのようになりたい―。故郷を飛び出し、大先輩と同じ神奈川の東海大相模に進学した。 中学の卒業文集を見返すと「20年後の自分へ」というタイトルで将来の自分にメッセージを送っている。「自分はジャイアンツ、プロ野球の道へ進んでいると信じています」などと未来予想図を記し、「今しかない人生。悔いの残らない人生を送れよ。by15歳の自分」と締めている。3球団を渡り歩いた中で、夢の巨人入団をかなえて原辰徳監督の下でプレーし、最後は「悔いはない」と言い切って現役引退。20年前の有言実行、やり切った。 座右の銘は「一日一生」。高校時代に門馬敬治監督(現・創志学園監督)から「人間はいつ死ぬか分からないのだから一日一日、悔いを残さず生きなさい」と教えられた言葉だ。野球人生、毎日全力でベストを尽くしてきた。グラウンドをダイナミックに躍動し、ド派手な活躍をするたびに見る者に夢と希望を抱かせた。 1軍では通算907試合出場、718安打、打率2割5分9厘、84本塁打、343打点。数字以上に記憶に残る野球選手として、ファンの心に刻まれたに違いない。(片岡 優帆)
報知新聞社