がれきから引っ張り出した少女のランドセル、あのころのまま 阪神・淡路大震災30年
赤いランドセルは端っこが少しすり切れていたけれど、まだ古びてはいなかった。持ち主である少女は、30年前の阪神・淡路大震災で亡くなった。 【写真】山内瑞絵さんの使っていたランドセル 名を、山内瑞絵(みずえ)さんといった。神戸市長田区に家族と暮らし、御蔵小学校に通う5年生。11歳だった。 がれきから引っ張り出されたランドセルは、ずっとたんすにしまわれていた。「ようさわれんかった」。瑞絵さんの母、多喜子さん(69)がぽつり。 連絡帳が出てきた。 「かぜをひかないようにきをつける」 日付は1995年の1月11日。学校で風邪がはやっていたのだろう。しっかり者といわれた瑞絵さんらしい大きな文字だった。 「字、きれいに書いとうやん」。多喜子さんの声が時折、詰まる。「30年前のそのまんま」 地震のあった17日の時間割も記されていた。 「算 音 国 体 理 サッカー」。筆箱にはとがった鉛筆と、角の丸くなった消しゴム。教科書の間からキムタクの下敷きも出てきた。 ランドセルを背負った一人の少女の姿が、まざまざとまなこに浮かび上がる。「あした」を突然断ち切られた幼い命を思った。 彼女のことは、古い記事で知った。 震災で亡くなった人たちを一人ずつ紹介する神戸新聞の特集。タイトルは「忘れない」だった。 〈無機質に並ぶ四ケタの犠牲者数の下に、さまざまな人生が詰まっている。その生きざまを地元紙として記録に残す〉 記事には、当時取材にあたった記者の決意が書かれていた。丸2年にわたる連載特集で、犠牲者6434人のうち足跡をたどれたのは1745人-とある。 30年前、私は滋賀県の高校1年生だった。記者になり、直接は知らない震災の取材をしている。昨年、職場で見つけた「忘れない」のファイルを手にとった。赤茶けて今にも破れそうな紙面を開くと、ピースサインの少女がこちらに向かってほほ笑んでいた。それが瑞絵さんだった。 忘れてないですか? 瑞絵さんだけではない。紙面に載った一人一人の色あせた写真に、そう問われているような気がした。 折り返しの電話があったのは、取材を申し込んで1週間になる頃だった。「お役に立てるか分からないけど」。瑞絵さんの母、多喜子さんは返事が遅れてしまったとわび、会う日取りを提案してくれた。 記憶は鮮明だった。 あの日、家がつぶれ、一緒に寝ていた瑞絵さんの名を何度も叫んだこと。娘をふすまに乗せて、病院に運んだこと。混乱する病院の廊下でずっと寝かされたこと。多喜子さんは、こうも語った。「想像がつかないのよ。あの子の40歳」 災害の記憶は発生30年を境に継承が難しくなる。そんな「30年限界説」が今、阪神・淡路の被災地でささやかれる。 「組織は30年で世代が変わる。集団としての災害の記憶も30年で消えていってしまう」。名著「失敗学のすすめ」で知られる東京大名誉教授、畑村洋太郎さん(83)は言う。三十三回忌の節目が過ぎることが背景にある、とする防災の専門家もいる。 兵庫県では、震災後生まれの世代が4分の1を占めるまでになった。神戸市では震災を経験していない市民が全体の半数を超えている、との推計もある。 町を歩いていて、地震の爪痕を探すのは難しくなった。「ここで亡くなった人が?」と驚く声も聞く。確かに記憶の継承は岐路にあるのかもしれない。でも、その同じ町で、今も痛みの記憶を抱えて生きる人がいる。失われた命と向き合い続ける人がいる。 「私」の記憶を、どうすれば「私たち」の記憶としてとどめていけるだろう。震災30年の現場から、考えたい。(中島摩子)