岸田首相の「第二の人生」 【政眼鏡(せいがんきょう)-本田雅俊の政治コラム】
すでに始まっている感もあるが、いよいよ12日に自民党総裁選が告示となる。1カ月前の8月14日、岸田文雄首相が「自民党が変わることを示す最も分かりやすい最初の一歩は、私が身を引くことだ」と力説し、電撃的な「不出馬宣言」を行ったことから、まるで雨後のたけのこのように次から次に後継候補たちが名乗りを上げてきた。全員のフルネームを諳んじて言えれば、かなりの“政治通”だ。 岸田首相は会見で、賃上げや投資の促進、エネルギー政策の転換、防衛力の抜本強化、G7広島サミットの開催などを自らの“実績”として豪語した。評価されるものもあるだろうが、客観的な判断は後世が担う。だが、政治とカネを巡る問題で生じた国民の政治不信を払拭できなかったことは間違いない。だから「岸田では衆院選は戦えない」(自民若手)との声が日増しに強まった。 「組織の長として責任を取ることに、いささかのちゅうちょもない」と言い切ったものの、総裁再選を目指してきた岸田首相にとり、不出馬は苦渋の決断だったはずだ。もっとも、政治とスポーツとの違いや、岸田首相が自らの感情を表に出さない性格であることを差し引いたとしても、パリ五輪・柔道女子52キロ級で敗退した阿部詩選手の号泣に比べれば、退任の無念さはさして感じられなかった。 それどころか、低迷を続けてきたとはいえ、それでも25%前後の支持率を維持してきた首相の不出馬表明にしてはあまりにも淡泊だったし、歴史上、これほど惜しまれないことも珍しい。かつては“親分”の退陣に際し、“子分”たちが涙を流して悔しがったり、「力及ばず申し訳ない」とわびたりしたが、旧岸田派(宏池会)関係者の中でも、じだんだを踏む者など皆無だった。それどころか、「内心、みんなホッとしているし、(不出馬の決断に)感謝している」(自民中堅)という。バイデン大統領に対する米国民主党員の思いと同じだろう。 新しい資本主義やデジタル田園都市構想など、岸田首相が内閣総理大臣として実現したい政策はあったはずだ。だが、鳩山一郎氏の日ソ国交回復や岸信介氏の安保改定、小泉純一郎氏の郵政民政化のように、「これだけは何としてでも自分の手で成し遂げたい」というものはなかったようだ。「政治生命を懸ける熱い政策がなかったから挫折感もないのではないか」(閣僚経験者)との指摘には大きくうなずける。 だからだろう、少なくとも現時点では、岸田首相の大きなレガシー(政治的遺産)は見当たらない。厳しい見方をすれば、何となく幕が上がり、何となく去っていく首相ということかもしれない。だが、それでも在任期間は1100日近くに達し、岸首相に次ぐ戦後8番目の長さとして記録される。 しかし、身を捨ててといえばいいのか、死中に活を求めたといえばいいのかはともかくも、派閥解散と岸田首相の不出馬宣言により、総裁選はにわかに活気づいている。ご祝儀相場も手伝って、11月にもあるといわれている衆院選で自民党は新首相のもと、勝利するかもしれない。もしも「自民大勝」ともなれば、皮肉にも禍を福に転じさせた岸田首相の最大の功績であり、レガシーとなる。 のみならず、衆院選や参院選、総裁選で敗北を喫しなかったため、さらに、“大御所”たちの世代交代も進む結果、岸田首相は退任後も政界に強い影響力を持ち続けられる。在任中、官僚の人事権を駆使した結果、霞が関にもにらみを利かせられる。73年前、マッカーサー元帥は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との有名なせりふを残して退任したが、首相の座を降りても、岸田氏が政治の世界から消え去る兆しは全くない。むしろこれからが岸田首相の真骨頂かもしれない。 岸田首相は不出馬会見で「新しいリーダーを一兵卒として支えていく」と述べたが、その言葉を額面通りに受け取る者はいない。だが、岸田首相自身、在任中、前首相や元首相をはじめとする“大御所”たちに過度に気を遣い、振り回されてきたはずだ。それならば、新たな“大御所”としていたずらに影響力をもてあそぶのではなく、ゆっくり「第二の人生」を過ごしてはどうか。永田町の悪しき風習を改めることも、「自民党が変わることを示す」ことになるはずだ。 【筆者略歴】 本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。