平成事件史:戦後最大の総会屋事件(7) 「第一勧銀」と大物総会屋 「呪縛」はなぜ断ち切れなかったのか
木島は1970年代には名馬ハイセイコーの馬主としても有名だったが、田中角栄が「刎頸の友」と呼んだ国際興業社主で「昭和の政商」小佐野賢治をはじめ、三菱系や4大証券の株主総会を仕切っていた大物総会屋の上森子鉄、広域指定暴力団「稲川会」の幹部など政財界や裏社会に幅広い人脈を築いていた。 木島は、「第一勧銀」が発足する前から、合併前の「第一銀行」と親密な関係にあり、合併を成功させた立役者として第一勧銀初代会長となった井上薫ら首脳陣と会食を続けていた。こうしたトップとの繋がりから幹部の人事にも大きな影響力を持っていたという。 また宮崎邦次が頭取の頃から、「第一勧銀」の幹部らは木島を囲んで年二、三回マージャン大会を開くようになっていた。事務方の総務部も月に一、二回、部長や副部長らがそろって木島を訪ねて機嫌を損ねないよう、極めて手厚くもてなしていた。 「第一勧銀の歴代の頭取や副頭取が新年のあいさつに行ったり、木島の主催するゴルフコンペに参加していた」(関係者) とくに株主総会後に赴く謝礼の挨拶は欠かせない慣行となっていた。「第一勧銀」は1992年の株主総会を円滑に乗り切ることができたお礼に、総務担当役員と総務部長、次長の3人が、東京・京橋の木島の事務所を訪れた。そこで3人は木島から予想外の要請を告げられる。 「小池の融資の件、何とか考えてやってくれないか」 総務担当役員ら3人は木島に「追加融資は難しい」と説明したが、もちろん木島は納得しなかった。そこで木島はトップの宮崎会長、奥田頭取とセッティングするよう3人に要求した。 「それなら、俺がトップに話してもいいよ。宮さんなんかと飯でも食おうか」 3人からの報告を受けた宮崎は木島と会うことを承諾し、「融資する方向で考えるしかない」との決断に至る。 ■銀座の高級料亭「吉兆」での会談 木島事務所への挨拶から約2カ月後の1992年9月4日、築地の高級料亭「吉兆」の一室で会食が開かれた。メンバーは木島力也、第一勧銀の宮崎邦次会長(当時)、奥田正司頭取(当時)、総務担当常務、副頭取、総務部長(前任者)の5人とされる。
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