平成事件史:戦後最大の総会屋事件(7) 「第一勧銀」と大物総会屋 「呪縛」はなぜ断ち切れなかったのか
小池は1988年以降は毎年、第一勧銀の株主総会に出席していた。バブル期全盛の1989年2月、第一勧銀から引き出した「30億円」を使って、野村、日興、山一、大和の4大証券株を「30万株」ずつ取得し、「議案提案権」を手中におさめた。また「20億円」を使って、まずは野村証券に弟の名義で口座を開設している。 それにしても、第一勧銀は11人の幹部が不正を知っていながら、なぜやめられなかったのか。常識的に考えれば「総会屋」という反社会勢力への利益供与に反対する幹部がいてもおかしくないはずである。実は、「不正融資を断ち切る機会」が何回か巡ってきていたことが、東京地検特捜部の調べで明らかになっていた。 最初のチャンスはバブル経済が崩壊に向かっていた1992年7月頃のことだ。小池が「第一勧銀」に差し出していた担保株の評価額が暴落し、「小甚ビルディング」名義で56億円、実弟の個人名義で32億円が「不良債権」となっていた。しかし、そんな状況でも小池はさらに追加融資を求めて、こう要求した。 「野村証券の社長と会って、儲けさせてくれることになった。株の儲けで返済するつもりだが、元手がいるので、小甚ビルディング名義で30億円の融資枠をつくって、株の購入資金を融資してほしい」 この少し前、小池は4大証券に「一任勘定取引」で儲けさせるよう要求している。小池からの要求を受けて、第一勧銀の総務部長らは、審査部門の役員らに決断を仰いだところ、やはり融資には反対された。追加融資などとてもできる状況ではなかったからだ。小池はこの頃、予定していたゴルフ場開発が頓挫したこともあり、元本の利払いどころか、利払いもできなくなっていたのである。 ■小池が頼った「大物総会屋」 そこで小池は、総会屋の師匠である財界のフィクサー「木島力也」に「口利き」を依頼する。第一勧銀の首脳を小池に紹介したのも木島だったからだ。 大物総会屋の木島力也は、あの「戦後最大のフィクサー」児玉誉士夫の側近と言われた。木島は出版社「現代評論社」社長として全共闘世代の人気だった新左翼系月刊誌「現代の眼」を発行、鎌田慧、柳田邦夫など人気ライターらが執筆者として名を連ね、一時期は「文藝春秋」や「中央公論」などと並ぶオピニオン雑誌となる。若者からも熱烈な支持を得て、各企業から賛助金や広告料が集まっていた。
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