田中希実の父親が明かす“共闘”の真実 Vol.3 妻との出会いがきっかけで指導者への道へ
田中希実。日本女子中距離界に衝撃を与え続けている小柄な女王。その専属コーチは実父・田中健智である。指導者としての実績もなかった男が、従来のシステムにとらわれず「世界に近づくためにはどうしたらいいか」を考え続けてきた。そんな父娘の共闘の記憶を、田中健智の著書『共闘』から抜粋しお届けする短期連載。 【画像】田中希実と田中健智。父娘のトレーニングシーン 第3回目は、第1章「長距離王国」に生まれた宿命より、田中健智氏と妻・千洋さんとの出会いの前後のエピソードをお届けする。 ----------------------------- 川崎重工に勤めて2年が経った頃、私はフルマラソンに取り組むようになった。高校時代から3000メートル障害を専門にしながらも、「もっと長い距離のほうが向いているのでは」との自覚もあった。実際、チームのロードワークでは誰よりも早く走り切り、長い距離を走るのがまったく苦ではなかったのだ。 マラソンは、陸上を始めた頃から意識していた目標だったが、思わぬ壁にぶつかった。走っている間に座骨神経痛がひどくなり、単調な動きを繰り返せなくなったのだ。長年積み重なったハードリングのクセのせいなのか、本当の原因は今でも分からないままなのだが…。 ハードルや水濠を跳び越えながら走る3000メートル障害と異なり、マラソンは単調なリズムの繰り返しだ。特性の違う二つの種目に並行して取り組んだ結果、だんだんと長い距離を走れなくなっていった。走り始めて1時間ほど経つと、何もないところでつまずいてしまう。片脚を引きずるような状態になり、ビリビリッと電流が流れるような痛みが走るのだ。 市民マラソンのような起伏の多いコースなら、リズムを立て直してごまかすことができるのだが、福岡国際マラソンのようなフラットな高速コースでは、走り始めてすぐに動きがおかしくなってしまう。長年のひずみのせいなのか、自分の意思と、脚がまったく連動しない。 もう潮時なのではないか―。 そう悩んでいた時、ひょんなことから後に妻となる千洋に出会ったのだ。 ある日の夜、明石で部署の懇親会があった。1次会が終わった後、同僚から「ボトルキープしている店がある」と誘われたスナックで、陸上談議に花を咲かせていると、ママから「ここによく顔を出す女の子も走っているよ」と話しかけられた。それは、当時、明石の証券会社に勤めていた妻のことだった。 実は、妻は同じ中学校の先輩だった。中学から陸上を始めた彼女は、県立小野高校に進学し、県高校駅伝で3年連続アンカーを務めて3連覇を果たしている。その走りを買われて、都道府県対抗女子駅伝の代表にも選出され、県内では名の知れたランナーだったのだ。てっきりどこかの実業団にでも入るのかと思いきや、当時の地元紙には「高校卒業後は競技を引退する」と書かれていて、「こんなに強い選手なのに辞めてしまうのか」と驚いたのを覚えている。 高校卒業後、5年ほど競技を離れていた彼女だが、ひそかに再開していたのも知っていた。小野市の大池総合運動公園の土トラックで、ポイント練習をしている姿をたびたび見かけていたからだ。私も休日は同じトラックで練習していて、「また走り始めるのかな」と気になっていた。ただ、私は彼女のことを知っていても、彼女は私のことなんて知らないはず。だから話しかけることもなく、互いに黙々と同じトラックを回っているだけの関係だった。 「あぁ、その子知ってますよ」 ママにそう相槌を打つと、じゃあ今から呼ぶわ、とすぐに連絡を取ったようで、間もなく彼女が店にやってきた。どうやら彼女も「小野市出身の選手が川崎重工で頑張っている」との噂を耳にしていたようだ。 当時、彼女は証券会社に勤めながら、高校時代の恩師に師事し、800メートルで上を目指そうとしていたのだが、限界を感じていて、マラソンに転向しようとしていた。私もまた、マラソンで行き詰っているタイミングで出会ったため、相談に乗っているうちに意気投合し、お互いの出勤前に朝練習をすることになったのだ。 朝5時頃、公園近くに集まり、8キロほど走ってから電車で通勤して、それぞれの職場に分かれる。共に走り始めてから約10か月後、1997年夏の北海道マラソンで、市民ランナーの彼女が実業団選手を抑えてマラソン初優勝を勝ち取った。 彼女も私と同じように決して恵まれた環境ではなくとも、実業団選手に勝ちたいとの心意気で戦っていた。一人で黙々と練習に取り組み、周りと群れず、強い芯を持っている。そんな人間として、ランナーとしての強さに惹かれ、同時に尊敬もしていた。実は彼女とは出会って1週間で結婚を決め、ひと月も経たないうちに正式に婚約する流れになった。今でいう「スピード婚」にあたるのだろうか。この話をすると驚かれるのだが、私にしてみれば似たり寄ったりな性格で、この人だったら一緒にいて面白そうだと思えたのだ。出会ってからの月日は、私にはまったく関係のないものだった。 彼女と人生を共にすると決め、改めて自分自身のキャリアを見つめ直した。私がこのまま競技を続けていても、全国の舞台に「出られるだけ」の選手。しかし、妻はそこを超えて、日本のトップクラスで勝負できる素質を持っている。 このままお互いがそれぞれの道を追いかけていったら、どちらも宙ぶらりんになり、空中分解してしまうのではないか―。そう思った時、私が選手を引退して、練習パートナーとして彼女を支える決心がついたのだ。引退しても陸上には携わることができる。未練はなかった。 【田中希実の父親が明かす“共闘”の真実Vol.4に続く】 <田中健智・著『共闘セオリーを覆す父と娘のコーチング論』第1章「長距離王国」に生まれた宿命より一部抜粋> 田中健智 たなか・かつとし●1970年11月19日、兵庫県生まれ。三木東高―川崎重工。現役時代は中・長距離選手として活躍し、96年限りで現役引退。2001年までトクセン工業で妻・千洋(97、03年北海道マラソン優勝)のコーチ兼練習パートナーを務めた後、ランニング関連会社に勤務しイベント運営やICチップを使った記録計測に携わり、その傍ら妻のコーチを継続、06年にATHTRACK株式会社の前身であるAthle-C(アスレック)を立ち上げ独立。陸上関連のイベントの企画・運営、ランニング教室などを行い、現在も「走る楽しさ」を伝えている。19年豊田自動織機TCのコーチ就任で長女・希実や、後藤夢の指導に当たる。希実は1000、1500、3000、5000mなど、数々の日本記録を持つ女子中距離界のエースに成長。21年東京五輪女子1500mで日本人初の決勝進出を果たし8位入賞を成し遂げている。23年4月よりプロ転向した希実[NewBalance]の専属コーチとして、世界選手権、ダイヤモンドリーグといった世界最高峰の舞台で活躍する娘を独自のコーチングで指導に当たっている。
編集部01