専門家が「専門外」についても語る社会は健全か 「数値を出さなきゃ意味がない」が逃す利得
驚いたのは「妊娠・出産ガイドブック・マニュアル」に分類されていることだった。本書はもちろん妊娠や出産に関係のない本だ。何らかの情報を基に、AIが「誤読」しているわけである。 何の話をしているかというと、ジャンルというのはなかなかに難しい概念で、だから「専門家」のジャンル分けも難しいのだ。加えて現代は、専門性がますます細分化している。拙著に対しては「経営学者が書いた本には読めないね」というフィードバックもいただいた(中身は面白かったらしい)。非専門家が書いているエビデンスのない本だ、という非難を浴びる条件は、正直揃っている。
■専門家が出す「エビデンス」の背景 ここで、私が最近調査している「AI創薬」について紹介したい。AI創薬とは、AIの技術を創薬に生かす取り組みだ。ある講演を聞いた際に、登壇者の方に「正直なところ、AIと創薬それぞれの専門性について、ひとりの先生はどれくらい理解されているのですか」と質問したことがあった。 つまり、講演の題材の論文にはAIの知識と創薬の知識が両方含まれているはずで、それらをすべて理解されているのですかと尋ねたのだ。どちらも非常に高度な専門性が求められるし、分野がかなり異なっている。ひとりが両方修めるのは並大抵ではない。
すると、「率直に言うと、理解できていない部分はあります」と答えられた。「高度化しすぎていて、両方の専門性を完璧に会得するのは無理じゃないかな」とも。理解できない部分については、AIの専門家と創薬(なお、創薬もバイオや低分子といった小分類が存在する)の専門家が緊密に議論し、互いに補い合いながら論文を執筆されるとのことだった。 互いに理解できない部分が存在しながらも1本の論文として発表できるのは、個々が高度な専門性を有するからこそである。しかし専門性が高まりすぎると、共著者同士ですら何をしているのか理解できなくなるという現象さえ起こりうるのだ。