アメリカという永遠の難問...「マグマのような被害者意識」を持つアメリカと、どう関係構築すべきか
<今のアメリカは、世界のお手本となる「民主主義と自由の国」だろうか。もはやそう自明視できない。『アステイオン』100号より転載>【三牧聖子(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科准教授)】
どんなに嫌いでも離れるには結びつきすぎていて、どんなに好きでもいつまで経っても理解できない。アメリカという国を理解し、関係を構築することは、いつの時代も難問だ。 【データで見る】米中ハードパワー・ソフトパワー対決 1986年に創刊された『アステイオン』でも、多種多様なアメリカ論が展開されている。そしてそこには、今日喪失されてしまったかとも思える、アメリカへの健全な批判が満ちていることにまず気付かされる。 私たちは今、アメリカを批判的かつ建設的に分析できているだろうか。たとえば外務省HPは日米関係についてこう述べている。「日米同盟は日本外交の要」であり、両国は「自由、民主主義、人権の尊重といった基本的価値観を共有」する国である、と。 しかし、今のアメリカは、世界のお手本となる「民主主義と自由の国」だろうか。もはやそう自明視できない。2021年、世界の民主主義や選挙状況を分析する民主主義・選挙支援国際研究所(IDEA)の年次報告書は、アメリカを初めて「民主主義が後退している国」に分類した。 同じ年にピュー・リサーチ・センターが日本やカナダなど16カ国で行った世論調査でも、各国平均で6割近い人が「アメリカはかつては民主主義のよいお手本だったが、今ではそうではない」と回答した。 アメリカ人自身も、自分たちが享受する自由や権利の衰退を感じている。「過去10年間に自由や権利が奪われた」と感じているアメリカ人は7割近くに及ぶ。アメリカは今日でも、日本にとって重要な国だ。しかしだからこそ、この国が抱える病や問題を誠実に分析していかねばならない。 この現代の問いに照らして、草創期の『アステイオン』のアメリカ論は啓発に満ちている。たとえば池澤夏樹は、芸術時評「アメリカ時代の黄昏」(1号)において、ニューヨーク美術の観察を通じて「アメリカだけが、他の経済や政治の分野でと同様に、文化の領域でも独走を続ける時代はそろそろ終わりかけている」、「アメリカだけを見ている時代はもう過去に属する」という認識を大胆に打ち出している。 確かに当時は、ベトナム戦争がアメリカの全面撤退で終わったこと等を受け、「アメリカ衰退」論が論壇を賑わせていた時代ではある。しかし池澤の慧眼は、「アメリカの衰退」を悲観視せず、むしろ世界がより多極化する趨勢として歓迎していることだ。 翻って、今日の私たちはどうか。 「グローバルサウス」と呼ばれる南半球を中心とする新興国は、文化や芸術のみならず、政治経済でもますます存在感を発揮している。 私たちは1986年当時よりもはるかに多極化した世界を生きているにもかかわらず、いまだ、アメリカを政治・経済・外交・文化など、様々な領域でのスタンダードとする思考から抜け出せていない。多極化する世界を寿ぐ大胆さを、私たちはなぜ持てなくなってしまったのだろうか。 高坂正堯「粗野な正義観と力の時代」(1号)は、予言的ともいえる論考だ。これが書かれた1986年のフィリピンでは、大規模な反政府運動にさらされてきたフェルディナンド・マルコスの権威主義体制が最終的に崩壊し、マルコスはアメリカに亡命した。 当時、多くの人々はこれを「暴政の打倒」と歓迎した。しかし高坂は、政変の発端からその収束の過程で、様々なアメリカの関与があったことへの注意を促す。 外国による内政干渉があったことをまったく問題とせずに、フィリピンの政変を「ピープルパワー革命」と称賛することは、高坂によれば「粗野な正義観」の典型だという。 「暴君を生み出した国民を支持して暴君を倒しても、そうした国民は再び暴君を生み出す」。高坂は、J.S.ミルの『内政干渉について』の印象的な一説を引きながら、そう釘を刺す。 高坂の分析が思い起こされる政変を、2022年、私たちは目撃した。マルコスの息子ボンボンが大統領の地位に就いたのだ。それも、クーデターのような非合法的な権力奪取ではなく、選挙を通じてであり、しかも得票率は、民主化後の歴代大統領の誰よりも高かった。 この現象をどう捉えるべきか。1986年の民主化に歓喜した人たちが、今度は手のひらを返して「フィリピンは民主主義を捨てた」となじるだけであれば、それこそ、「粗野な正義観」をまったく克服できていない。今日の独裁者は選挙をあからさまに否定するのではなく、効果的に使って、あくまで「民主主義的」に権力を握り、統治の正統性をより確かにする。 「選挙独裁」とも呼ばれるこの現象は、サントリー学芸賞を受賞した東島雅昌『民主主義を装う権威主義──世界化する選挙独裁とその論理』をはじめ、近年の政治学のホットなテーマとなっている。高坂が憂えた「粗野な正義観」を克服していくための試みは着実に積み重ねられている。 『アステイオン』草創期の論者たちは、鋭い批判でアメリカを射抜くばかりではない。巷に反米感情が広がっているとき、しかもその反米感情に十分に合理的な理由があるとき、それでも日米協調の重要性を信じる者が語るべき言葉とは何か。五百旗頭真「破局からの教訓──日米への警鐘」(1号)はその模範ともいうべき論考だ。 当時は、日米の貿易摩擦問題で両国民の相互感情は極度に悪化していた。しかし五百旗頭は、再度の日米関係の破局を回避するために、日本国民が抱くアメリカへの怒りに理解を示しつつ、「自由貿易のルールに従って競争に勝ったことの反面として、他国が傷ついているという側面に無感覚であり、優位に立った者の持つべき他者への配慮をなしえない」日本国民の態度を批判し、改善を促す。 自由貿易体制に対し、大国アメリカがいかに被害者意識を抱えているかを理解する必要は今日、再び高まっている。 2017年の大統領就任演説で「長らくアメリカは世界に搾取されてきた」とうたいあげ、在任中、日本に対しても貿易赤字の削減を強硬に求めたドナルド・トランプが、共和党の予備選で強さを見せつけ、2024年大統領選の最有力候補の一人となっているのだ。 「世界に搾取されてきたアメリカ」は決してトランプの孤高の叫びではない。昨今のアメリカでは、共和党支持者を中心に「自由貿易はアメリカ経済にとって脅威となる」と回答する人は増え続けている。マグマのような被害者意識を抱えた大国アメリカとどう向き合い、どのような関係を構築するか。五百旗頭の問いはまったく古びていない。 先に紹介した高坂の論考「粗野な正義観と力の時代」は、様々な意味で予言的な論稿だが、極め付けは、「四十年という年の経過はひとつの秩序にほころびを生ぜしめるのに十分の長さ」であるという洞察だ。 あたかも、ロシアがウクライナに軍事侵攻し、中東のガザでイスラム組織ハマスとイスラエルとの間に大規模な戦闘が起きている今の世界を予見していたかのようだ。 しかも高坂は、第二次世界大戦後に打ち立てられた国際秩序への最大の挑戦は、「ユダヤ人問題というヨーロッパが生み出した問題のツケとして、不法にもアラブ世界の中にイスラエルが作られた」と考えるアラブ諸国からやってくるとも述べているのだ。 高坂が、第二次世界大戦後の国際秩序への最大の挑戦が、中国やロシアでもなく、中東において生じうると考えていたことは興味深い。国際秩序を、単なる力の体系ではなく、価値の体系とみなしていた高坂の国際政治観をよく表している。そしてこの国際政治観は、今日の世界を洞察し、その行方を見極める上でますます重要になっている。 「欧米諸国の偽善はガザで完全に葬り去られた」。ガザ危機の中で、そうした怒りの声が非西洋世界で力を得ている。 イスラエルは、パレスチナ人の命と人権を踏みにじって建国され、今日でも国際法に違反した入植政策や占領を続けているが、欧米諸国はその暴力的な事実から目を背けてきた。今回の戦争についても、戦闘開始から100日間でパレスチナ市民の犠牲は2万を優に超えたが、イスラエルの軍事行使を支持する姿勢を崩していない。 昨年末には南アフリカが国際司法裁判所(ICJ)に提訴し、イスラエルによる「ジェノサイド」を問う裁判も始まった。1月26日、ICJはイスラエルに対して暫定措置として、ジェノサイド行為を防ぐために「あらゆる手段」を講ずること、ガザ市民への人道支援を供給するために、有効な方策を「即時実施」することなどを命じたが、欧米はこの裁判そのものを批判する姿勢をとっている。 グローバルサウスには、「これまで欧米諸国が語ってきた正義や法の支配、人権とは何だったのか」という懐疑と批判の声が広がっている。南アフリカはかつて、欧米諸国が支えた白人政権によるアパルトヘイト(人種隔離)に苦しんだ経験を持つ。そうした歴史を持つ国によるイスラエル提訴は、国際秩序の道義的な意味での大きな転機になるかもしれない。