偽の「往来手形」確認 江戸期の女性罪人?が所持 現在のパスポート「実物は貴重」/兵庫・丹波市
江戸時代、庶民が巡礼や商用などの目的で旅行する際に必携だった「往来手形」の偽物が、兵庫県丹波市市島町梶原の民家で確認された。旅の途中、梶原村で病死した40歳代半ばの女性「はる」が所持していたもので、共に確認された別の文書と照らし合わせると、偽往来手形であったために、当時の同村役人が「はる」の素性を調べるのに苦労しつつも、丁寧に対応して埋葬したことがうかがえる。この女性、左腕に「彫物」があったと記されている。「はる」は何者で、なぜ、往来手形を偽造する必要があったのか。丹波市文化財保護審議会委員の山内順子さんの調査から見えてきた「はる」の姿を推測する。
女性「はる」が所持 内容に誤り多く
往来手形は、現在のパスポートのような役割を果たす文書で、主に檀那寺や村役人が発行した。本人の住所や檀那寺の名前、旅行先と目的、関所の通行や宿泊の依頼、病気や死亡した時の処置が記される。 「はる」が所持していたものは、1856年(安政3)7月に「摂州屋辺郡(八部郡の誤りか)酒瀬河町」の「野福寺」が発行し、寺印が押されている。「はる」は八幡屋萬治郎の妻で、行き先は四国、西国の霊場巡り。「(道中で)病死した場合は国許に知らせる必要はなく、亡くなった土地の作法に従い埋葬してほしい」とある。 山内さんの調査では、八部郡(現・神戸市の一部)に野福寺という寺はなく、有名な「能福寺」がある。山内さんは、同寺近くの県立兵庫津ミュージアムに、この往来手形の見解を問うたところ、▽寺印が正式な印鑑には見えない▽(能福寺が発行したとして)自分の寺の名前を違う名で記すことはない▽自分の寺の在所表記を間違えることはない―などとし、「信ぴょう性を疑う」との解答だった。
左腕に「彫物」 各地を転々か
この往来手形と共に、「はる」に関して梶原村役人が書き残した覚書も確認された。これによると、「はる」は丹後国で病気になり、梶原村までたどり着いたものの、同年8月21日深夜に病死したとある。覚書の日付は翌8月22日で、梶原村の役人は、かなり早く対応したことが分かる。 同村の役人は、「はる」が持っていた往来手形をもとに身元を調査したものの、住所が分からないばかりか、往来手形の他に必要とされた手形も持っていないと困惑。「(往来手形は正式なものではなく)あつらえたものと思われる」として偽造を疑っている。 この他、覚書には布団やキセル、裁縫道具など、「はる」が所持していた11品が列記。容姿は「44、45歳くらい」「尼さんのようないでたち」とあるほか、「左腕には彫物」と記されている。どのような彫り物がなされていたのかは記されていないが、遊女の可能性が考えられるほか、当時、罪人の体に入れ墨をする「入墨刑」もあった。 山内さんが調べたところ、罪を犯して村を追放された人は、往来手形が発行してもらえず、偽の往来手形を入手したという。これに照らすと、腕に彫り物があった「はる」は、偽造した往来手形を所持していたことと相まって、罪人だったこともうかがえる。 山内さんは「罪人だったとすると、自分の村にはいられなかった可能性が高く、偽往来手形を入手し、各地を転々として施しを受けながら生きていくしかすべがなかったのでは」と推測する。偽往来手形に記された旅行の目的が、四国や西国の巡礼とある点に着目し、「具体的な目的地を記載すると、広い範囲を動き回って施しを受けられないと考えたのかもしれない」と話す。 研究者の間で偽往来手形の存在は知られていたが、実物が確認されたことは貴重という。