圧倒的に有利だった東海一の武将【今川義元】はなぜ桶狭間の戦いで敗れたのか?
東海最大の戦国大名であった今川義元は、尾張侵攻の途上、寡兵の織田信長に討ち取られた。戦国最大の番狂せといわれた桶狭間の戦いは、なぜ起きてしまったのか? ■尾張平定を目指し出兵した今川義元 天文15年(1546)に三河東端の吉田城を確保して以降、義元は、田原城の戸田康光(やすみつ)を滅ぼし、岡崎城の松平広忠(ひろただ)や西条城(のちの西尾城)の吉良義昭(きらよしあきら)を服属させた。天文21年に織田信秀(のぶひで)が病死して子の織田信長が跡を継ぐと、その間隙をぬって尾張の国衆にも調略を開始する。こうして鳴海城の山口教継(のりつぐ)が今川方に寝返ると、大高(おおだか)城や沓掛(くつかけ)城も今川氏の属城となった。 これに対して信長は、鳴海(なるみ)城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦、大高城の周囲に丸根砦・鷲津砦などの付城を築く。今川方となった鳴海城と大高城に兵糧や弾薬が運び込まれないようにするためである。義元は、これらの付城を攻略し、鳴海城と大高城を解放するため、自ら尾張へと出兵したのだった。 大高城は三河と接する知多郡にあり、愛知郡の鳴海城に隣接している。義元による尾張出兵の結果、鳴海城・大高城の攻略を信長が断念すれば知多郡は今川方となり、鳴海城・大高城が織田方の手に落ちれば知多郡は織田方の支配下に入ることになる可能性が高い。知多郡には、緒川城の水野信元(のぶもと)をはじめとする国衆が割拠しており、義元による尾張出兵の成果によって、その去就は変わる。鳴海城と大高城をめぐる争奪戦は、単に愛知郡と知多郡の境における争いではなく、尾張一国の支配権にもつながる争いだった。 双方の兵数は、一般的には今川軍が2万、織田軍が2000とされるが、文献によって異なるため、確実にはわからない。ただ、今川軍が軍勢の数としては織田軍を圧倒していたのは事実だった。『松平記』には「およそ義元の旗先には飛鳥も地に落る威勢也」と記されている。信長はまだ尾張一国を完全に平定することすらできておらず、義元は、こうした信長の苦境につけこみ、知多郡を制圧しようとしていたのである。いずれは、尾張一国の平定も視野にいれていたのであろう。 義元が愛知郡と知多郡との境まで一気に進出したのは、水野氏を味方ととらえていたからにほかならない。永禄3年(1560)に比定される4月12日の書状のなかで、義元は水野十郎左衛門尉に対し、「尾州境取手之儀付」、つまり、織田領との間に砦を築くことを命じている。この水野十郎左衛門尉の実名は不詳であるが、水野一族が今川氏に従っていたことは確かである。しかし、水野信元の一族や家臣が織田方の付城に入っており、実際には日和見(ひよりみ)をしていた様子がうかがえる。 今川軍の動きが、水野信元から信長に伝えられていた可能性は高い。『三河物語』によれば、今川義元の敗死を松平元康(のちの徳川家康)に知らせたのも、水野信元だった。 そもそも、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしてしまったのは、信長が今川軍の本陣の場所を正確に把握していたためである。その一方で義元は、信長の動きを知らなかった。圧倒的な軍事力を前に、信長の動きを知るまでもないと判断していたのであろう。そこに義元の油断があったと言わざるをえない。 監修・執筆/小和田泰経 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部