最初の“東京五輪”は遠足だった? ~幻のオリンピック前史(前編)
そんな時代にあって、「東京でオリンピックの予行演習をしよう」などという大それたことを考えた男がいた。旗振り役は「少年冒険小説の開拓者」と言われる押川春浪(おしかわ・しゅんろう、1876~1914年)である。 野球をはじめ大のスポーツ好きで知られていた押川春浪は、雑誌『冒険世界』の主筆を務めていた。この『冒険世界』は今日では「軍国主義的な侵略イデオローグの少年誌」と切り捨てられることが少なくない。しかし同誌は近代オリンピックの様相をはじめて日本語で報道した雑誌でもあった。 具体的には1908(明治41)年9月5日発売号(第1巻9号)と翌月号(第1巻10号)において、橋戸頑鉄という記者がロンドン・オリンピックをレポートしている。こうしたことから、押川はオリンピックに関して、一般人よりも関心も情報も持ち合わせていたと考えられる。
押川がオリンピックに関心を持った背景には、スポーツとは無関係な側面もあった。それはメディアとしての『冒険世界』と読者の関わり方である。 押川の代表作で同誌に連載された『武侠六部作』は、勇壮な正義の主人公たちを「壮快な武侠」として描き出すことに特徴がある。現在の娯楽漫画などと異なり、押川の作品には主人公と敵が戦いの後に理解し合い、友となるという筋立てはない。敵は威張ってこそいるが弱い臆病者であり、不意打ちなどの卑怯な手段を使う下劣な存在である。 一方「友」となる相手ははじめから決まっている。彼らは「武侠」であり、一目見るなり「肝膽相照らす」仲となる。豪傑は豪傑を知る。豪傑を見いだした者もまた豪傑である。そして登場人物の中に隠れた豪傑性を見いだす読者もまた豪傑なのだ。こうして小説と現実世界の壁は融解して地続きとなり、読者もまた豪傑の一員に加えられるのである。 押川の一連の作品がこのような構造を持っている以上、豪傑の一員たる読者たちがつながり合おうとするのは当然の成り行きだった。『冒険世界』の読者欄「読者気焔欄」には、雑誌の感想と並んで読者がお互いに呼びかけ合い、文通し、さながら読者共同体を作り出そうとするかのような動きがあった(明治期に見知らぬ同士が「つながり」を実現するメディアは、雑誌の投稿欄だけだった)。 こうして今で言う「オフ会」が行われたのだろう。 前述の通り、主催者である押川は大のスポーツ好きだった。そして日本では馴染みの薄いオリンピックの存在も把握していた。つねづね「面白いことをしたい」と考えていた押川が、「東洋オリンピック」の予行演習を敢行しようと考えたのは自然な流れだった。