最初の“東京五輪”は遠足だった? ~幻のオリンピック前史(前編)
●日本的なオリンピズム解釈「天幕旅行大運動会」
『冒険世界』1908(明治41)年7月5日発売号(第1巻7号) にこんな募集記事が掲載されている。 「破天荒の快挙!空前の壮遊!七月二十五日日比谷公園出発下総鴻の台方面に向かう、その夜野営を張って大いに愉快に騒ぎ、翌日野武士的大運動会を催す、快活男子は来たれ来たれ!」(編注:新字現代かなづかいに改めています) このイベントは「天幕(テント)旅行大運動会」と銘打たれている。5ページにわたる檄文調の参加者募集の中には、次のような一説もみられた。 「冒険世界は現代文弱の悪風に反抗し、他日東洋オリンピヤ大競技会を開きたいと思っているほどで、今回のはその瀬踏みとも言うべきものだが」(編注:新字現代かなづかいに改めています) 大胆にも押川はこの企画を「東洋オリンピックの『瀬踏み(つまりトライアル)』」と位置づけていたのだ。大言壮語しても娯楽雑誌のメディアイベントにすぎないわけで、国やIOCが関与していたわけではない。それ以前の問題として、まだ日本にはIOCの委員さえいない時代である(嘉納のIOC委員就任は翌年)。逆に言えば、西洋の影響がない、「純粋に日本的なオリンピズムの解釈」が見られた興味深いイベントでもあった。
イベントは2日間で、初日は日比谷公園から千葉の鴻之台(現在の市川市国府台)までの「遠足」。国府台は滝沢馬琴の 『南総里見八犬伝』 の舞台となった場所で、小田原の北条氏と房総の里見氏が争った第一次、第二次国府台合戦の戦場跡でもある。江戸から外れた場所にもかかわらず、江戸名所図会や江戸名所百景に描かれる江戸名所だった。『冒険世界』主催のイベントとして、うってつけの場所といえた。 途中、4班に分かれて中川を渡し船で通過。目的地の鴻之台はなぜか「南洋」に見立てられていたと言われ、現地で野営しながら共に大食し、琵琶、詩吟、剣舞、講談などの「芸術プログラム」が行われた。 一同はそのままテント(天幕)で1泊。翌日競技を行った。参加者(ほとんど雑誌の読者)はまさに冒険した気分だったという。 四つの新聞社(萬朝報、やまと新聞、東京朝日新聞、時事新報)が同行取材していたものの、記録がないため当時の世評は不明である。また、例え記録が残されていたとしても、信頼性は疑わしいだろう。というのも、記者たちは押川が主催するスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のメンバーだったからだ。正確には朝日と時事の記者はメンバーでなかった可能性もあるのだが、日頃からいっしょに酒を飲んだりするなど友人関係にあったと考えられている。つまり客観的な報道が期待出来ない状況だった。かなり内輪で盛り上がった大会だったといえよう。 募集人数300人のところ、応募者は200人。前日の天気が思わしくなかったせいか、当日の参加者は120名に留まった。おまけにテントの野営では参加者が例外なく蚊の大群に襲われて満足に眠ることが出来ず、翌日は疲れ果てて競技にならなかったという。しかし押川は強い手応えを感じ、成功を確信したと言われる。