「法を超えた救済を」ジャニーズ性加害問題で提言した理由 林眞琴氏が語る危機管理の鉄則
●退官する1週間前、「悲願の法律」が成立
そして2011年。またも林氏は逆風の真っ只中にいた。前年に起きた大阪地検特捜部検事による証拠改ざん事件を受け、東日本大震災直後の2011年3月末「検察の在り方検討会議」は提言を出す。 翌月、林氏は最高検察庁に異動し、検察改革推進室の室長に就いた。特捜部を始めとする検察改革、取調べの録音録画などの議論に着手するためだ。 組織の外からは検察に対する厳しい目が向けられ、内からは「取調べを規制するつもりなのか」と激しい反発を招く。 改革の根底にあったのは「取調べの在り方をもっと適正にしたい」という思いだ。 「精密司法を支えていたのは、取調べでした。日本の刑事司法は取調べと供述調書に過度に依存している実態があったわけです。過度な取調べに依存するのは、他に捜査手段がないから。精密司法が行き過ぎていた状態を、もう少し正常な方向に戻そうと。捜査から公判に比重を移させた方がいいと考えた」 そもそも検察官とは何か。その任について、改めて考え直す機会とした。 「検察官は公益の代表者である一方、当事者でもあります。しかし、大阪地検特捜部の検事は公益の代表者から大きく外れて、悪しき当事者になってしまった。訴訟という勝負に勝てばいいんだと」 「悪しき当事者」の立ち位置を公益の代表者の方向にずらすこと。改革の骨子はそこにあった。その後まとめた『検察の理念』で、次のように宣言した。 〈あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない。我々が目指すのは、事案の真相に見合った、国民の良識にかなう、相応の処分、相応の科刑の実現である〉 検察改革の仕上げとなる法制審議会・新時代の刑事司法制度特別部会の審議は3年続いた。そのメンバーには、改ざんの被害者であり、無罪判決を経て厚生労働省の事務次官となった村木厚子氏もいた。2014年、刑事局長として法務省に戻り、検察改革の最後のパーツである刑事訴訟法の改正を推し進める。 足掛け2年、取調べの録音・録画やいわゆる司法取引の導入等を内容とする刑事訴訟法等の大改正を2016年、成立させた。 「組織改革で一番大変なのは、問題が生じている制度の現状も、過去からの経緯や理由、必要性があってできているという点です。取調べをめぐる刑事訴訟法改正は、特捜部が起こした不祥事がきっかけであったからこそ、できたのだろうと思います。不祥事がなかったら、成功体験を持つ組織の根幹の部分を変えることは、そうそうできることではない」 大仕事を終えた林氏に、もう1つ、重い宿題が残されていた。名古屋刑務所事件を契機に明治41年(1908年)に成立した監獄法は廃止された。しかしその前年である明治40年(1907年)成立の刑法が規定する「懲役刑」はまだ生きていたのだ。 「監獄法は廃止されても、刑事施設に来る受刑者は変わらない刑法によって裁かれ、懲役何年という判決を下されている。懲役は『懲らしめの役』です。懲役には教育的処遇はありません。受刑者は監獄法改め刑事収容施設法という新しい法律のもとで作業だけではなく、改善指導という教育的処遇を受けることになったのにもかかわらず、です」 このギャップを埋めなければいけない――。 林氏が刑法改正に着手するのは刑事局長を離れる直前だった。その後は名古屋高検検事長、東京高検検事長、検事総長となったため、改正への情熱は後輩たちに託した。 2022年6月に、115年ぶりの刑法の刑罰改正が成立。懲役刑と禁錮刑を廃止して、拘禁刑に一本化することができた。 「私にとっては悲願の法律でした」と感慨深そうに語る。 「刑法における刑罰の軸足を応報刑から教育刑の方向に移す改革です。最初は監獄法、それに続いて大元に位置する刑法がようやく変わったわけですね」 成立から1週間後、検事総長を退官した。 「後輩たちがしっかりやってくれた。見届けてからやめることができたのは幸せだったと思います。検事としての限られた人生の中で監獄法、刑事訴訟法、そして刑法といった刑事法の基本法の大改正に携わることができたことは、とても幸運でした」