「法を超えた救済を」ジャニーズ性加害問題で提言した理由 林眞琴氏が語る危機管理の鉄則
●「職場の雰囲気が温かった」検察官志望の理由
愛知県豊橋市に生まれた。戦後、宮大工となった父は、一般大工の棟梁として事業を営んでいた。中学を卒業したばかりの10代の少年たちが大工見習いとして住み込みで働く。彼らにかわいがられ、父母や姉とともに家族のように育っていく。 旧吉田藩の藩校(1752年創設「吉田藩時習館」)の名称を受け継ぐ名門校、愛知県立時習館高校(豊橋市)に進学した。部活は中学から始めたテニス部。成績は良かったものの、政治問題を論じるような早熟なタイプではなく、「平凡だった」と振り返る。 「当初は家業を継ぐため建築学科を検討していましたが、絵が下手で、これでは建築家にはなれないと悟りました。法学部に進学したのは、進路指導の先生に『文系なら法学部が潰しがきく』と言われたのがきっかけです。今とは違って、当時は法学部にいけば会社員、役人、弁護士、何にでもなれるという時代だったんですね」 現役で東大法学部に進学するが、そこで初めての逆境を味わった。 周りは“教育大駒場”(現在の「筑波大学附属駒場高校」)や灘の出身ばかり。孤独を感じ、徐々に大学へは足が遠のいた。語学など最低限の講義にしか行かず、かといってクラブ活動やアルバイトに精を出すわけでもない。卒論は無いし、必須ではないからゼミにも入っていない。 「だからご学友は?と言われても、いないんです。振り返れば平野龍一さん、松尾浩也さんなど名だたる法学者が教壇に立ち、後に学者となる酒巻匡さん、佐伯仁志さんら同級生たちにも囲まれていたわけですが、それがわかるのは後に検事となり、法務省で法制審議会にかかわるようになってからでしたね」 奮起するのは大学3年生の秋になってのこと。国家公務員上級職や司法試験受験を決意する。合格率はまだ2、3%。500人弱しか突破できない時代だ。 「この時点では何になろうというより、試験を突破することだけを考えていました。当時まだ少なかった司法試験塾には通わず『、受験新報(』中央大学真法会・編)を読んで司法試験のことを知り、基本書を読みノートにまとめたりして独学で勉強を始めました」 翌年には短答式に合格するも、論文で失敗。留年した5年時に合格した。この年(1980年)の司法試験では、28,656人の出願者に対して合格者は486人。合格率は1.7%という狭き門だった。 当時は2年間の司法修習期間があり、1年4カ月の実務修習は岐阜で行った。検事を志すようになったのは実務修習が終わり、東京・湯島にあった司法研修所に戻る直前のことだったという。決め手は修習を通して感じた検察組織の雰囲気だった。 「検察庁の9割は検察事務官たちなんですね。事務官の人たちが非常に温かかった。弁護士事務所は小さな組織ですし、裁判所は検察庁に比べると、人間関係はもう少しあっさりしていました。大工の見習いの若い人が住み込みでいた実家と検察は温かい雰囲気が似ていたんですね。それが決め手だったと思います」